お星さまになった赤ちゃんの幸せを祈って

これまで3度の流産、1度の死産という壮絶な体験をしたS・Aさん。「なぜ私にこんなことが―」。深い絶望からSさんを救ったのは、幸福の科学の信仰でした。Sさんが苦しみから立ち直り、幸せな家庭を築いていくまでの軌跡をたどります。

隔月刊「ザ・伝道」240号より転載・編集

私の赤ちゃん、命の尊さを教えてくれてありがとう。―流産、死産の苦しみを乗り越えて

これまで3度の流産、1度の死産という壮絶な体験をしたS・Aさん。「なぜ私にこんなことが―」。深い絶望からSさんを救ったのは、幸福の科学の信仰でした。Sさんが苦しみから立ち直り、幸せな家庭を築いていくまでの軌跡をたどります。

隔月刊「ザ・伝道」240号より転載・編集

劣悪(れつあく)な環境だった幼少時代

私は1975年、大阪の都心から離れた田舎町に生まれました。両親は私が生まれてすぐに離婚し、母は女手一つで、私と4つ上の兄を育ててくれました。

母は働きづめでほとんど家におらず、私は家族のだんらんを知らずに育ちました。そのうえ物心ついたころから母と兄はケンカが絶えず、包丁が持ち出されることも......。怖くておびえて過ごしていました。

兄が独立した後、私は19歳で美容師になり、母と暮らしながら働きました。そんなある日、よく通っていた居酒屋の店員さんに経典『太陽の法』 『黄金の法』 『永遠の法』 を勧められ、本好きだったので読んでみました。あの世は本当にあること、人間を創造された神仏がいらっしゃること―。(こんな世界があるの)とびっくり。読めば読むほど、今まで味わったことのない喜びがこみ上げ、うす暗かった心に光が差していくようでした。ほどなくして私は信者になり、(主エル・カンターレ大川隆法総裁が救世主として、地球に生まれておられるんだ)と信じるようになりました。

子どもが欲しいのに......

主人と出会ったのは27歳ときです。主人は精肉関係の仕事をしていて、仕事に誠実な方でした。お付き合いを始めた数カ月後に妊娠が分かって、結婚することに。ところが式の準備をしていた矢先、出血と腹痛に見舞われ、初めての子どもは4週目に流産となってしまったのです。

(そんな―)

ショックで、心身ともにボロボロでした。

そんななか、私の知らないところで、義父母との同居も決まっていました。案の定、同居後は気疲れしてイライラする毎日......。ストレスからか、二人目、そして三人目も流産となってしまいました。法友のアドバイスで、幸福の科学の支部で「仏説・願文『愛児・水子供養経』」の供養をしていただいたことが唯一の救いになりました。

そんなある日、高校時代の友人とばったり会いました。彼女の腕の中には、赤ちゃんが―。うらやましくてたまりません。

妬み心でもんもんとしてしまい、悩みを幸福の科学の支部長に打ち明けました。

「それはつらいですね......。人生は一冊の問題集ですから、『苦しいなかでも、赤ちゃんができた人を祝福できますか?』と問われているのかもしれません」

(そんなん、できへん......)

でも、苦しいままは嫌なので、心の中で(おめでとう)と祝福してみるようにしました。最初は心から思えませんでしたが、少しずつ心も伴うようになり、徐々に苦しみが和らぎ、穏やかになっていったのです。

初めての赤ちゃん

そんなある日のこと、義父に信仰を反対されて「出てけ」と言われ、同居をやめて夫婦水入らずの暮らしが始まりました。

(子どもがほしいけど、「執着が悩みのもとになってしまう」という教えもあるし、執着になったらいけないかなぁ)。私はだんだんあきらめの境地に入り、仕事を始めました。子どもが好きなので、幼稚園のバス送迎の添乗員(てんじょういん)を選びました。

そして仕事を始めて一年後に、4度目の妊娠が分かりました。喜びとともに、(また流れるんちゃうか......)という恐怖が頭をよぎります。そのため心音が聞こえたときには本当に大喜び。私は幸福の科学で、「胎児に魂が宿るのは、9週目」と学んでいたので、9週目を越え、さらに安定期に入ったときにはホッとしました。

そして、暑い夏の日。待望の赤ちゃんを出産したのです。女の子でした。3日もかかった難産で、生まれてきた赤ちゃんの体には、へその緒が三重にも巻きついていました。息がしづらかったようで、何度もお尻を叩かれて、やっと産声を上げました。

(や、やっと、産声が聞けた......)

初めて抱っこする赤ちゃんです。

(あぁ、なんて可愛いんや―)

主人と涙を流して喜び合いました。

義父母との和解

初めての育児は大変で、長女は毎晩一時間おきに起きてしまいます。

(母親って、ほんま大変やなぁ)

長女をあやしながら、私はふと母のことを思い出していました。保育園のころ、喘息(ぜんそく)持ちだった私を自転車に乗せ、毎日病院に連れて行ってくれた母。息がしやすいよう、スースーする軟膏(なんこう)を塗ってくれました。

(お母さん、ありがとう......)

母への感謝の思いが湧き上がりました。

その後、私は次女を出産。そんなある日、義父が胃潰瘍(いかいよう)で倒れたのです。

同居をやめた申し訳なさもあり、着替えを運んだり、義父の髪を洗ってあげたりと看病をしました。寡黙(かもく)な義父でしたが、「ありがとう」とぽつりと言ってくれました。看病するなかで、(義父母が主人を産んでくれたからこそ、今、主人と家庭をつくり幸せに暮らせているんや)と気づきました。

そして入院2週間後に義父は退院。その後、義父母は大川総裁の法話を拝聴して、信仰にも理解を示してくれるようになり、幸福の科学に入会しました。

夫の実家に遊びに行くと、義父母は長女と次女を抱っこしてとても可愛がってくれました。娘たちのおかげもあって、義父母へのわだかまりが解けていきました。

突然の異変

しばらくして私は三女を出産。その一年後には4人目の赤ちゃんを妊娠しました。妊娠10カ月目に入り、出産予定日の3日前のことです。朝起きると、赤ちゃんの胎動がなく、とりあえず産婦人科に行きました。エコー検査が始まると、看護師さんたちがバタバタし始め、医師も「あれ?」と首をかしげているのです。おそるおそる「だ、大丈夫ですか?」とたずねると......。「......城山さん、赤ちゃんの心音がないんです。残念ですが、死産です......」

(......え!?)

言葉にならない絶望感―。さらに医師から、亡くなった赤ちゃんを普通にお産して取り出すと説明されました。大きいお腹を抱え、泣きながら診察室を出ると、主人と幼い娘たちが心配そうに待っていました。娘が駆け寄ってきます。

「かぁか、どしたん?」

子どもたちを見た瞬間―抑えていた感情があふれだし、娘たちを抱きしめて声を上げて泣きました。

(この子たちがいてくれて、よかった......)それからお産までの3日間、どう過ごしていたか、私には記憶がありません。まるで魂が抜き取られたようでした。そして3日後、やっとのことで取り出された、死産になった赤ちゃんを抱っこすると、まるで眠っているかのようでした。

(信じられへん。産声がないだけやん!)

助産師さんもすすり泣いていました。

そして翌日には、火葬(かそう)......。私は胸にぽっかりと穴が空いたようで、苦しすぎて「自殺」の二文字が頭をよぎるほどでした。

(何でこんなことが起きるんですか......)

神仏に問いかけ、さまざまな仏法真理の書にあたりました。経典『光ある時を生きよ』 にある、悩みのときこそ笑顔を浮かべることの大切さが説かれた詩篇(しへん)が私の心を力強く励はげましてくれたのです。

どん底で差してきた光

絶望のまま日が過ぎ、あまりに苦しくて、幸福の科学の大阪正心館 に駆け込みました。すると、ある女性講師が、私の話を時に涙を浮かべながら聞いてくれました。「その子は、苦しまずに、スッと天上界に引き上げられたんですね......。なにか使命をお持ちのように感じます。大切なことを教えてくれているのかもしれません」

「そうなんでしょうか......」

「きっと、この出来事の奥には、神仏の深い愛が隠れているのではないでしょうか。海よりも、深い深い愛が......」

("海"と"愛"......。ハッ!)

鳥肌が立ちました。実は私は赤ちゃんに"海"と"愛"が付く名前にしようとしていたのです。

そして同時に、ふとあるインスピレーションが降りてきました。

(そうか、妊娠することも、元気な赤ちゃんを出産することも、当たり前じゃない。命は神仏からの授かりものなんだ―)

私は今まで3人の娘を次々と授かったので、(次の子も普通に生まれるわ)と傲慢(ごうまん)だったことを反省しました。そして、(赤ちゃんは、命の尊さを私に教えるために、来てくれたんだ)と確信しました。名前の通り、海より深い愛の心で、私に気づきを与えてくれたのです。

「お母さんがしょんぼりしたままだと、その子は使命を果たせないと思うんです」

(それはあかん!)

私の心に、バシーッと光が入りました。

その後、私は「愛念(あいねん)供養祈願」を受けました。

「暖かい仏の光が
あなたの魂を
包みますように
そちらの世界でも
優しい人々に愛され
新しい幸福な生活が
始まりますように―」

(救世主に会うこともなく、ただ私に気づきを与えるために来てくれて、ありがとう)

不思議と、悲しみが感謝の心に変わっていくのを感じました。

それからは、些細なことにも神仏や家族に感謝するようになりました。娘たちのわがまますら愛おしいのです。四女の産声を聞けなかった私には、わがままが言えること自体が、生きている証だったからです。

人生最大の"プレゼント"

(どうか、また生まれ変わってきて―)

そう願いながら過ごしていたある日。

精舎(※)で神秘的な体験をしました。精舎研修中、急に子宮がブワーッと熱くなっていったのです。そして......。

(授かる―)

―そう直感しました。そして驚くことにその翌月、妊娠が分かったのです。

その後、なんと私の誕生日に、元気な男の子を出産しました。産声が聞こえたときには心からホッとしました。

(人生最大の誕生日プレゼントや―。主よ、ありがとうございます......)

※精舎......祈願や礼拝、研修を行うための、幸福の科学の宗教施設

主人にありがとう

その後、一つ問題が起きました。長女が中学受験を迎え、幸福の科学学園への入学を考えていたものの、そのころの主人は信仰にあまり理解がなく、受験にも反対だったのです。そんなとき、精舎で「両親に対する反省と感謝」研修を受けました。

まずは母に思いを馳せました。実は私は未熟児で生まれ、「3日もたない」と医師から言われていたそうです。そのため死産を通して、母のつらさを感じ、育ててくれたことに感謝が深まっていきました。

また、私の母は水商売をしていて、お金持ちで妻子ある人の愛人でした。そのため、私が浮かべる男性像は"優しくてお金をくれる人"。主人のことも「働いて稼ぐのは当たり前」と思い、感謝していませんでした。

(本当にごめんなさい......)

それからは主人を献身(けんしん)的に支えようと思い、「妻の心得・十箇条」研修を受けました。日々、研修の学びである「感謝を伝えること」などを実践すると、夫婦仲が深まり、精舎にも夫婦で行けるようになったのです。そして、導かれるように、知人から精肉屋さんをゆずり受け、お店をオープン。夫婦一緒にお店で働き始めました。主人の姿が頼もしくて、心から尊敬できるようになりました。その後、次女の幸福の科学学園進学に賛同してくれ、家庭も全員が信仰を持ち、円満になっていきました。

ご褒美のような家族

私は今、思うことがあります。幸福の科学では、人はあの世とこの世を何度も生まれ変わって魂修行をしていると学びますが、「もしかしたら、死産した赤ちゃんの魂が、長男になって生まれ変わってきてくれたのかもしれない」と感じています。人生で一番きつかった死産も、信仰のおかげで乗り越えられました。ご褒美のような家族をいただいたことへの感謝を胸に、報恩の人生を歩んでいきます。

夫 Jさん(46)

毎回、妻の出産に立ち会ってきました。四女の死産は本当にショックで......、その後、無事に赤ちゃんが生まれてきてくれたときには、ほんまに妻と涙しました。僕は仕事一筋で、家のことや子どものことは妻におまかせしています。大変やのに本当にようしてくれていて、妻に感謝しています。ほんまにありがとう。

【The 体験解説】Sさんが死産や流産の 苦しみを乗り越えたポイントとは

Sさんは、どのように死産や流産から立ち直っていったのでしょうか。

POINT1 あの世を信じ、赤ちゃんの供養(くよう)をした

幸福の科学では、「人は死んだら終わりではなく、魂は永遠である」と学びます。Sさんは、子どもが成仏して天国で幸せに暮らせるよう、「仏説・願文『愛児・水子供養経』」「愛念供養祈願」などの祈願を受けました。そのなかで、赤ちゃんに救いの光が臨(の)ぞむとともに、Sさんの悲しみも少しずつ癒いえていったのです。

POINT2 一人で抱えず相談し、苦しみの意味を見い出した

Sさんは、死産や流産の苦しみを一人で抱え込まず、幸福の科学の支部長や講師に相談しました。そのなかで、「死産を通して、赤ちゃんが命の尊さを教えてくれたんだ」と悟ることができ、どん底だった心に光が入り、立ち直る力が湧いてきたのです。

赤ちゃんの「供養」について分かる一冊

正しい供養 まちがった供養

「仏説・願文『愛児・水子供養経』」で供養をすると、霊界にエル・カンターレの光が現象化してきて、彼らには、金色に光る大仏が救いに来てくれて、手を差し伸のべているように見えるのです。

(経典『正しい供養 まちがった供養』より)

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