齢60にして治療室開業の夢を実現できた【体験談】
最愛の妻をがんで亡くし、生きる気力を失ってしまったA.Nさん。悲しみの底で、大川総裁の教えを学び続け、やがて、新しい人生に踏み出そうと決意を固めます。
第2の人生をスタートさせたNさんに、お話を伺いました。
(A.Nさん/男性/東京都)
月刊「幸福の科学」 368号より転載・編集
妻との死別を乗り越えて見つけた第2の天職―。
2013年3月29日。その日を境に、私の人生は一変しました。25年間連れ添った妻が、50歳の若さでこの世を去ってしまったのです。
多発性骨髄腫(こつずいしゅ)という血液のがんにかかった妻は、毛髪がすべて抜け落ちるほど大量の抗がん剤治療を受け、肉体的にはとてもつらい状態に耐えながら、入退院を繰り返していました。それにも関わらず、妻はいつも明るく、私や当時高校生だった娘に心配をかけないよう、闘病中も笑顔を絶やしませんでした。
「……確かに痛いのは嫌だけど、あの世に還るだけだから―」
私たち家族は 幸福の科学 の教えを通して、「人間は死後、魂となって霊界で生き続ける」と学んでいました。だから妻は、死への恐怖を乗り越えていたのだと思います。余命宣告も冷静に受け止め、延命治療を続けるより、自宅で最期を迎えることを望みました。
妻が亡くなる3日前。その日はちょうど、私たちの25年目の結婚記念日でした。
「Aさんと結婚してから今まで、本当に幸せだったなぁ……」
そうつぶやいた妻の姿が、通夜や葬儀の間も、何度も脳裏によみがえってきました。
妻のいない空虚な日々
「ただいま―」
仕事から帰っても、当然、笑顔で迎えてくれる妻の姿はありません。
(ああ、本当に逝ってしまったんだな……)
私は、疲れた体を引きずり、買ってきた食材を抱えてキッチンに入ります。妻がいなくなってから、わが家の家事は私が担当。
料理の経験はありませんが、大学に通う娘のために、ネットでレシピを調べながら何とか夕食を作ります。その後、娘とテレビを見ながら夕食をとり、11時ごろから残りの家事を片づけます。
娘も母親を亡くしてつらいはずなのに、そんな様子はおくびにも出さず、気丈に振る舞っていました。そんな娘の存在がなければ、私は妻のいない寂しさに押しつぶされていたと思います。
とはいえ、遅くまで会社の仕事をした後に、慣れない家事全般をこなすのはかなり重労働で、けだるい疲労感が抜けません。
(でも、妻は毎日、こんな生活を送っていたんだよな……)
妻は生前、障害児支援の仕事に就きながら、家事や子育てを一手に引き受け、一時は認知症になった私の母の世話までしていたのです。一方私は、ウェブクリエーターの仕事が忙しく、家を空けてばかりでした。
(すまない……。俺は全然、力になってやれなかった……)
仕事や家庭の過負荷が原因で、妻が病気になったのではないかと、後悔や自責の念が後から後から湧いてきます。
職場に行っても、以前のように向上心や使命感を感じられず、その日その日の仕事を何とか消化するようなありさま。よく、「心に穴が開いたよう」と言いますが、まさにその状態で、何をしても心が満たされない日々が続きました。今振り返ると、私は鬱になりかかっていたのだと思います。
半年の苦悩の末に―
(俺は一体、どうしたらいいんだ……)
当時の私にとって唯一の救いは、 大川総裁 の書籍を読み、仏法真理を学ぶことでした。「人生の意味」や「死後の世界」について学んでいる時間だけは、心に暖かな光が差し込んでくるようで、癒されるのです。
ある日、 『太陽の法』 をひもとくと、その一節が私の心を捕らえました。
「苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです。つまり、苦悩や悲しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。選択とは、何か。
つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。その選択です」
(与える側か、与えられる側か……)
そのとき、ふと妻の姿が浮かびました。
妻は、人の役に立つのが何よりも好きで、いつも家族や友人たちの悩みを聞いては元気づけていました。それは、がんになっても変わらず、同室の患者さんや、看護師さんたちの悩み相談に乗り、たくさんの人から慕われていたのです。
(妻は自分が病気で苦しくても、「与える側」を選んでいた。俺も彼女のように「与える側の人生」を生きたい―)鬱状態になって半年以上、大川総裁の書籍を読み続けたことで、やっと心が上向き始めたのを感じました。
57歳からのチャレンジ
さらに、私に立ち直る契機を与えてくれたのが、 『生涯現役人生』 という書籍でした。
「『「21世紀中に、おそらく、平均的に百歳まで生きるようになるだろう」ということが科学的にも言えるので、いま、現役で活躍中のみなさんは、百歳時代に対応できる考え方、心構えを持つべきである』ということです。これを持っていないと、大変な晩年がやってくることになると思います」
(そういえば、俺ももうすぐ定年だ。この先、年金をもらえる保証もないし……)
私は、これから先の「第2の人生」について、真剣に考えるようになりました。
(定年後も、何か人の役に立つ仕事ができないだろうか)
さまざまな職種を検討するうち、以前、趣味で習ったことのある鍼灸マッサージの仕事が選択肢として浮かんできたのです。
(そうだ。マッサージの仕事なら自分も好きだし、人のお役にも立てるんじゃないか)
ネットで調べると、自宅から30分のところに有名な鍼灸マッサージの専門学校があり、3年間通って国家試験に受かれば、鍼灸師の国家資格を得られると分かりました。
(よし。心機一転、頑張ってみよう)
私は、新しい人生を切り拓く覚悟を決め、会社に相談して、後任となる新しいエンジニアを雇ってもらいました。その人が私の代わりに仕事ができるようになるまで、半年かけて育成したのです。
そして翌年3月、長年勤めた会社を57歳で退社し、翌月から、若い人たちに交じって、鍼灸マッサージの専門学校に通い始めました。
立ちはだかる試練
専門学校は週6日で、朝9時から昼ごろまで。午後は、生活費の補てんと勉強を兼ねて、知人のマッサージ治療院で受付や雑用のアルバイトをさせてもらいました。
というのも、学校を無事卒業して国家資格を取得できても、そのとき私は60歳。この年齢では、なかなか雇ってはもらえません。そのため、初めから自分の治療室を開業することを目指そうと考えました。そこで、治療院でバイトをしながら、施術の流れや予約の取り方などを学んで、将来に必要な経験を積んでおきたいと思ったのです。
しかし、学校の勉強にバイト、そして家事全般と、“三足のわらじ”を履く生活は、想像以上に大変でした。
(忙しくて目が回りそうだ。でも、天国の妻に心配かけないためにも、何とか頑張るぞ)
そして、定期試験が近づいた6月のこと。
以前勉強した範囲を復習してみると……。
「あれ? おかしいな。ちゃんと覚えたはずなんだけどな……」
試験では、何百もある骨や筋肉の名前とその位置、膨大な数の病名と症状、対処法などが問われます。私は一生懸命勉強してきたのに、なぜか、覚えたはずの内容が半分も頭に残っていないのです。
(そんな、もうすぐテストなのに……)
ものすごい不安に襲われました。もし赤点をとり、追試にも落ちたら、翌年すべての授業を受け直さなければいけません。
気を取り直して、何度も反復して勉強しましたが、1週間も経つと、暗記した内容がほとんど抜け落ちていることも。底なしの桶で、水をすくっているような感覚です。
(やはり、この年じゃ無理なのか……)
すっかり自信を失い、とぼとぼと帰り道を歩いていたある日の午後。
学校から歩いて数分の場所に、幸福の科学の 精舎 があることに気づきました。精舎というのは、幸福の科学の礼拝(らいはい)施設です。私はさっそく、その精舎の礼拝堂に入って、空いている椅子に腰かけました。
(ああ……。心が落ち着く。こんな感覚、久しぶりだなぁ)
深呼吸を繰り返すうちに、焦りや不安で波立った心がスーッと静まり、溜たまっていたストレスが流れ落ちていくようです。すると次第に、体に力が戻ってきて、失いかけた希望がよみがえってきたのです。
(そうだ、あきらめるのはまだ早い。もう一度、頑張ってみよう!)
その日から私は、授業が終わってバイトに行くまでの時間、精舎のフリースペースで、勉強や読書に励みました。精舎にいると、不思議なことに、短時間で驚くほど集中でき、とても勉強が進むのです。
疲れたり、弱気になったりしたときは、礼拝堂で心を静め、「将来、多くの方の心と体を癒す鍼灸マッサージ師になる」という夢をありありと思い描きました。すると、「勉強の大変さ」が、「夢に向かうための土台作りなんだ」と思えるようになり、勉強が“苦痛”ではなく、喜びに変わっていったのです。
精舎のスタッフの方々も、いつも笑顔で声をかけてくださり、私が勉強するのを温かく見守ってくれました。
(よし、この調子で頑張るぞ)
その後も私は、記憶力の衰えと闘いながら勉強を続け、年3回ある定期試験では、常に上位三割に入る成績をキープし続けることができたのです。
多くの方に、心と体の健康を
そして、2017年の3月末。私は、国家試験の結果をパソコンで確認していました。
「あった―」
見事合格! 60歳の鍼灸マッサージ師の誕生です。その後、私は、自宅の近くに小さな治療室を開業し、5月から仕事を開始。おかげさまで、来てくださる患者さんも少しずつ増えています。
患者さんの大半は主婦の方ですが、皆さん家事や育児だけでなく、お仕事や親御さんのお世話など、いくつもの役割を背負っておられます。私も今は、その大変さが痛いほど分かるので、少しでも心身の苦痛を和らげることができればと、心を込めて施術をさせていただいています。
私が第2の人生をスタートできたのは、常に私を支え、導いてくれた大川総裁の教えがあったからです。また、私の夢を後押ししてくれた娘や、天国の妻、多くの法友、そして、神仏のご加護に心から感謝しています。
今後は、一人でも多くの患者さんの心と体を癒せるよう、心を磨きつつ、「生涯現役」で治療室を続けていきたいと思います。
『生涯現役人生』
『生涯現役人生』 (大川隆法 著/幸福の科学出版)5 生涯現役の心構え
より抜粋したメッセージ
新しいことに興味・関心を持ちつづける努力を
大学の先生でも、定年退職後は、本が出なくなっていくことが多いのですが、それは、「勉強を続けることの難しさ」を意味しています。
現役時代に、研究の対象が大学で授業を持っている分野などに固まっていて、それ以外のことに関する知識のストックがなく、研究対象を広げていなかった人は、現役を引退すると、勉強がそれで終わってしまうのです。
つまり、大学の仕事が終わった段階で、勉強も終わってしまうことが多いわけです。
興味・関心の範囲がもう少し広い人の場合は、本を読みつづけることができるので、定年退職後、10年たっても、本を書いて出したり、座談会を開いたり、テレビに出たりすることができます。そういう人は勉強を続けているのです。
しかし、そのような人は数が少なく、百人に一人もいないかもしれません。大学の先生でも、率としてはそのくらい少なくなるので、自由業と言われるような職業の人の場合にも、そういう面はあるのではないかと思います。
たとえば、作家などは、若いころから大学の先生と似たような生活をしているのかもしれませんが、その人の生産物を見れば、その人が遊んでいるのか、勉強しているのかが分かります。
とにかく、つねに、新しいことに興味・関心を持ちつづけ、新しい分野の研究を続けていくことが大事です。