人間関係、病気、仕事の不調…。これってカルマのせい?―不幸な運命から脱却するには―
(最終更新: )
「最近嫌なことばかり続くな…」「どうして自分ばかりが辛い目に合わないといけないのだろう」
人間関係や、病気など、生きているとあまりに苦しく、悲しい出来事を経験することがあります。
直面する問題には必ず原因がありますが、その中の一つに「カルマ」があります。
カルマとは、現代的に言うと、前世から積み重なった各人の「魂の傾向性」とも言います。
あなたの問題も、もしかするとカルマが関係しているかもしれません。
どうすればカルマを乗り越えられるのか。大川隆法総裁の法話をもとにお伝えいたします。
運命は変えられるのか
人間の運命をつくっている要因
運命は変えがたいものかといえば、そうではない部分もあります。確かに、人間の運命には、すでに決まっていて変えがたい部分もありますが、本人の自由意志による裁量に任されている部分もそうとうあります。その裁量の幅は、個人によってかなり差があるのです。
人間の運命をつくっている要因は何でしょうか。
一番目は、生まれてくる前に立てた計画です。
二番目は、地上に出てからの本人の努力です。
三番目は、霊的影響です。
この霊的影響のなかには、本人の守護霊や指導霊の影響もあれば、憑依霊などの悪霊の影響もあります。
こうした要因が重なり合って、その人の運命が決まっていくのです。
(書籍『霊的世界のほんとうの話。』 より抜粋)
運命を超える方法
私は、長年、宗教家として経験を積んできた者として、「人生に運命があるかどうか」と訊かれたら、「あるでしょう」と答えます。
ただ、その「あるでしょう」という答えは、「決まった筋書きがある」という意味ではありません。「人には、それぞれの魂の傾向性というものがあるので、その傾向性を見れば、その人の人生は、だいたい予想がつく」ということです。その意味において、やはり、「運命はある」と言わざるをえないのです。(中略)
しかし、その運命を超える方法もあります。すなわち、研究心を持って、自分を観察し、他人を観察し、その魂の癖や傾向性、長所・短所を緻密に分析しながら、「自分を変えていこう。いまの自分を脱ぎ捨てていこう」と思っている人は、運命が変わっていくのです。
自分の運命が、もし、呪われた運命であり、悪しき運命、避けたい運命であるならば、そこから逃れる方法は一つです。それは、自分の魂の傾向性をはっきりとつかむことです。それをつかめば、運命の先が見えます。先が見えれば、どうしたらよいかが分かります。「この先、自分はこのようになる」ということが分かるので、それを避けていけばよいのです。(中略)
運命はあるけれども、それを発見し、改善することも、また可能なのです。
(書籍『幸福の法』 より抜粋)
カルマとは何か
「業(ごう)」は「カルマ」ともいい、比較的、有名な考え方だと思います。「宿業(しゅくごう)」と呼ばれることもあります。(中略)
人間には魂の傾向性があり、一定の環境が現れたときには、似たような行動パターンを起こし、みすみす落とし穴に落ちていくことがあるのです。このように、業を魂の傾向性としてとらえるほうが現代的でしょう。
業を魂の傾向性ととらえたときには、「自分の魂で最も特徴的なものは何か。そうした特徴を持っている場合、地上に生きていくうえで困ることは何か。どのような事態が起きやすいのか」ということが問題となりますが、その答えは人それぞれです。
どうか、業という言葉を、現代的には魂の傾向性と考えていただきたいのです。自分の魂の傾向性を見つめ、「それをどう処理していくか」ということを考えていくのが筋だと思います。
(書籍『釈迦の本心』 より編集・抜粋)
過去世のカルマは存在する
「カルマの法則」というものは、宗教的な方面では経験が多いのですが、医学の例から引いてみても、かなりはっきり出てきています。やはり、「前世の償(つぐな)い」というかたちで出てくるわけです。
例えば、暴力等によって人を虐待したり、人を殺したりしたような人の場合、今世は、どのような人生が予想されるかというと、やはり、自分が虐待されたり、殺されたりするような人生が出てくることが多いのです。
つまり、暴力によって人を障害者にしてしまった人や、人の手や足を折ったり、斬ったりしたような人である場合は、今世、自分が生まれたときに、そういう障害が出てくる可能性が非常に高いのです。
それから、家族問題でもそうです。今、夫の暴力に悩んでいる妻は数多くいると思いますが、そういう夫婦関係を続けた場合、次回生まれてくるときには、逆になることもあるわけです。
すなわち、今度は、暴力夫のほうがいじめられる側になって、妻のほうがいじめる側になる場合もあるわけです。
また、親子関係でも、親にいじめられた子供が、今度は親に生まれて、親が子供のほうに生まれるなど、立場が逆になるようなこともあります。
さらに、親子の間での殺人という問題もあります。親が子供を殺したり、子供が親を殺したりした場合、退行催眠をしてみると、過去世で殺されていたり、殺したりしていることが、今世では逆になっているようなケースが出てきます。
まことに恐ろしいことですが、「償いの法則」というものが、ほぼ完璧に出てくるわけです。
(書籍『ザ・ヒーリングパワー』 より抜粋)
自らの行動や思考は全て「想念帯」に記録される
人間の心は、仏の光が一定の目的意識のもとに凝集して、創造されたものですが、想念帯(そうねんたい)という部分が、一種の記憶テープとなっております。そして、仏の光の磁気を帯びているのです。
このテープには、その人が、過去から現在までに思ったこと、行ったことのすべてが記録されております。仏の光に親和性のある記述は、金色で書かれていますが、仏の光をこばむような内容の記述は、灰色で書かれているのです。
したがって、想念帯のテープを一瞥(いちべつ)すると、金色に輝いている人と灰色にくすんでいる人との区別が、はっきりと分かります。
カルマの法則というのも、結局は、この想念帯のテープの色によって、その人の人生行路が色分けされるということなのです。
ですから、金色の多い人は、金色の人生、すなわち、光の菩薩としての人生を歩んでゆくはずです。
しかし、灰色の多い人は、灰色の人生、すなわち、やがては地獄で厳しい試練が待ち受けているということを暗示しているのです。
しかし、想念帯には、ひとつの神秘的な秘密があります。
秘密とは、何か。つまり、いったん灰色で書かれた文字であっても、その心と行いを反省することによって、金色に変わるということです。
すなわち、大いなる改心は、人生を黄金色に光らせるという真実があるのです。
(書籍『黄金の法』 より抜粋)
因果の理法からは逃れることはできない
仏が人間に与えた原因・結果の「縁起(えんぎ)の理法(りほう)」
仏は、心の自由性と、原因・結果の「縁起の理法」を人間に与えました。心の自由性には、その反面として、必ず責任が伴います。したがって、人間は、自分がなした原因行為による結果については、甘んじて受けなくてはいけません。それは覚悟すべきです。
原因に対する結果は、この世においても来ますし、また、この世で縁起が完結しない場合には、この世を超えた世界において、それは必ず完結します。
この世においては、「努力しても報われなかった」ということもあるでしょう。その一方で、「努力しなかったのに非常に成功した」という人もいるかもしれません。それだけを見ると、非常に不公平であり、原因・結果の時間縁起が必ずしも働いていないようにも思えます。
しかし、この世において縁起が完結しないからこそ、実は、この世を超えた実在の世界において縁起が完結しているという論理が、そこにあるわけです。
(書籍『大悟の法』 より抜粋)
縁起の理法は今の人生だけではない
この世において、善人が不幸な死に方をすることもあります。しかし、それは、本当の意味での不幸ではありません。そういう人は天上界において必ず報いられることになっているのです。
この世において、悪人が栄えるように見えることもあります。しかし、その繁栄は永遠のものではありません。それは必ず、大きな執着となって、来世の苦しみを生むことになるのです。
そのように、この世においては、必ずしも「善因善果、悪因悪果」になっておらず、その正反対に見えるようなことがあります。仏教では、これを「異熟(いじゅく)」といい、その結果のことを「異熟果」といいます。
それはいろいろな場面で見られると思いますが、そのような現象が起きるということ自体が、実は、縁起の理法がこの世で完結せず、来世まで行って初めて完結するということを意味しているのです。
(書籍『大悟の法』 より抜粋)
今世のスタートはある意味で結果でもある
今、述べたことは、人生の終わりについての話ですが、人生の始まりについても同じことが言えます。
「人間はみな仏子であり、平等である」と言っても、生まれにおいて違いがあります。ある人は金持ちの子に生まれ、ある人は貧乏人の子に生まれます。また、ある人は生まれつき体にハンディがあり、病気を持っていたり、体が不自由だったりします。あるいは、知能や体力に差があります。人間には違いがあり、人間は必ずしも平等ではありません。
これも、現時点だけを見れば、「平等ではない。公平ではない」と思えるのですが、実は、過去世からの転生輪廻の結果が、ずっとつながってきているのです。
今世だけで考えると理解できず、説明がつかないものについては、その前の時代から原因行為が始まっていると考えるべきなのです。
そうであって初めて、生まれにおける違いの説明がつきます。もし、そうでないならば、人間はみな、生まれつき同じでなければいけないはずです。
しかし、実際には、同じく赤ん坊であるということ以外は、与えられた能力や才能、体質その他について、差があります。今世だけではないものが、そこにあるからです。
生まれてきた時点は、スタートであると同時に結果でもあります。各人の過去の人生における、さまざまな歩みの結果が、今世のスタート点になっている面もあるのです。
因果の理法は一代では完結せず、無限の過去から無限の未来まで流れているものなのです。これが時間的な連鎖のなかでの縁起の理法です。
(書籍『大悟の法』 より抜粋)
カルマと向き合うには
カルマとの積極的対決
「人間は永遠の魂修行をしながら、くり返しくり返し、地上に生まれ変わっている」という考え方をとり、この視点から現在の自分の魂修行というものを見たときに、「自分がいま試練と考えているものは、ほんとうは違ったものではないのか」という、次の考え方が出てきます。
もう一度、転生輪廻や永遠の生命というものを土台にして考えたならば、どうなるでしょうか。全然違った考えが出てくるはずです。
特に、いま悩んでいること、まさしく悩みの中心となっているものは、みなさんの人生の問題集がいったい何であるかを教えているということなのです。
「自分の人生の問題集が何であるのかを教えているのが、現在ただいまの悩み、特にいちばん深い悩みである」という教えを知っていただきたいのです。(中略)
問題というかたち、悩みというかたちをとって現れている、みなさん自身のカルマにしかすぎないのです。
リング上での対決は、他人との闘いではなく、みなさん自身のカルマとの対決です。これをノックアウトしなければいけません。それが今世の使命なのです。
(書籍『常勝思考』 『病気カルマ・リーディング』 より編集・抜粋)
来世以降、宿題を残さないように
今世を生きていく過程において、悪い種子を心のなかにまかないようにしよう。
悪い種子をまけば、生きているあいだにも、それは育ってくるが、死んだあとであっても、それがなくなることはないのだ。魂の傾向性として宿題が残り、来世では天界以外の所に行くことになる。
さらに、来来世という、その先の生まれ変わり、もう一回先の生まれ変わりにおいても、その宿題を持って生まれることになる。
今世の何十年かの人生でつくった、魂の強い傾向性、カルマというものは、来世以降も、かなり持ち越すので、そういう宿題を残さないようにしよう。
宿題を残さないようにするには、どうすればよいか。
まず、まく種に気をつけ、悪い種をまかないようにしよう。悪い種をまいてしまったら、次は、それが育たないように努力しよう。
それが育ってしまったときには、今世において刈り取れるものなら、それを刈り取ってしまおう。
(書籍『復活の法』 より編集・抜粋)
カルマの刈り取りは単なる罰ではない
地上時代の過ちは過ちとして、もう十分に反省はしているのですが、自分の良心が自分自身を許すことができないため、あえて、そういう環境や立場を選び、「どうか、私の魂を磨くために、そういう身分で、そういう立場で、そういう境遇で、生まれさせてください」とお願いして生まれてくる人も、なかにはいます。
やはり、いくら反省しても反省しても、一度犯した罪というものを、自分自身で許すことができない、消すことができないので、「どうか、一度、そういう経験をさせてください」と望む人もいます。
(書籍『霊的世界のほんとうの話。』 より抜粋)
困難な時こそ神はそばにいる
カルマと対決する最中こそ、私たちの人生の最大の試練であることは、ほぼ間違いがないでしょう。
その試練こそ、今世の最大の試練でしょう。そのときに、180度の転換をということですが、実は、「そのいちばんの試練と対決しているときこそ、あなたは神にいちばん近いところにいる」ということなのです。 (中略)
「彼らは、やはりカルマと対決してきたのだろうけれども、その最中にこそ、神にいちばん近いところにいるのだな」ということを私は感じます。「たいへんご苦労な体験であった」と思うけれども、「それがあって、やっと辿り着いてきてくれたのだな」と思います。
そういう苦難を礼賛する気持ちはございませんが、そのなかにも「神への道」はあるし、あるいは「神にいちばん近いところに、今、自分は立っている」ということを忘れてはなりません。
(書籍『エル・カンターレ人生の疑問・悩みに答える 人生をどう生きるか』 より編集・抜粋)
より良い人生を送るための秘訣
仏法真理を知ると、みなさんは、それまでと同じ生き方を続けることはできなくなります。そして、自分の人生の間違いに数多く気づくことでしょう。
考えたこと、行ったこと、人に対して語ったことなどにおいて、数多くの間違いがあるはずです。人間は、間違いなくして人生を生きることはできないのです。
その間違いについては、「もう取り返しがつかない」と思うかもしれません。しかし、みなさんには救いの光が与えられています。それが反省という方法です。仏法真理に照らし、きちんと反省することによって、みなさんの罪は許されるようになっているのです。
「救いの光が入ってくる」ということは、「罪が許される以上のものが与えられる」ということを意味します。真実の反省においては、天上界から支援や励ましを受け、生きる力、生きるエネルギーを得ることができるのです。反省によって、マイナスがゼロになるだけではなく、さらに、プラスのものが恵みとして与えられるわけです。
「真実に目覚めた」ということに対するご褒美として、生きる力、新しい生命の力が与えられ、生まれ変わります。
信仰に目覚め、自分の人生を反省することによって、この世において生まれ変わることができ、"2度目の人生"を生きることができるのです。これを「トワイス・ボーン」といいます。
過去、どのような生き方をしてきたとしても、深い深い反省を実践し、人を愛することをやめず、真理を深く学べば、この世で、人間として別人に生まれ変わり、新たな人生を生きることができるのです。
(書籍『生命の法』 より抜粋)
すでに終わった過去の悪については、よく反省をすることです。そして、まだ現われてきてはいないけれども、悪い思いや行ないによって種を播いてしまい、将来的にそれが悪として出てくるようなことがあったら、それを押しとどめることです。
そして、善なる種を播いたことによって、現在すでに現われてきつつある善は、さらにそれを推し進めることです。こうした努力が必要です。
これが、みなさんのカルマといわれるものを清算するための、そして、より良き人生を、今世・来世・来々世と送っていくための秘訣なのです。
(経典『宗教選択の時代』より)
霊的世界をリアルに描き出した衝撃作として、大きな話題となった映画『夢判断、そして恐怖体験へ』 (2021年公開)。
その続編となる映画『レット・イット・ビー ~怖いものは、やはり怖い~』 は、"カルマ"に関するエピソードなど、実際に起きた5つの心霊恐怖体験を実写映画化しています。
「過去世のいつの日か、
あなたも君も、
誰かを呪って、誰かを苦しめて、
誰かを殺したことがあるかもしれない。」
(楽曲「血の涙」※歌詞より抜粋)
※ 本楽曲は「映画『レット・イット・ビー ―怖いものは、やはり怖い―』(夢判断、そして恐怖体験へ2)オリジナル・サウンドトラック 」に収録されています。