科学哲学者の高橋昌一郎氏(國學院大學教授)がまた自身の週刊新潮コラム(7/9号)で幸福の科学とその信仰を冒涜する文章を掲載している。しかし同氏は、「オカルトと宗教の違い」も、「カルトと信仰団体の違い」も分かっておらず、幸福の科学を批判する資格はない。同氏の信仰を貶める行為と数々の事実誤認に対してその非を明らかにするとともに、高橋氏こそ「現代人を迷わすあわれな研究者」であることをはっきりさせたい。

神の御名に対する冒涜は許されない

高橋氏は、週刊新潮7月9日号のコラムで幸福の科学の信仰対象である地球神エル・カンターレという御名が、イタリア語のカンターレ(歌う)と似ていることにひっかけて、コラム表題を『大川隆法と「カンターレ」!』と茶化している。そして文中では「アモーレ・カンターレ・マンジャーレ(愛して歌って食べる、それが人生だ)」というイタリア人の人生観を紹介しつつ、「人間は、何を信じて生きるのも自由だからね」と嘲けり愚弄している。

高橋氏に銘記してもらいたいのは、神の名を軽々しく扱ったり、茶化したりすることは、宗教にとって最大の侮辱であり、このような暴挙に対して黙っている信仰者はいないということである。

信仰者が「神の御名がたたえられること」を心の底から願うのは、すべての宗教に共通する信仰の基本中の基本である。地において悩み苦しむ人々の声に応えて、立ち現れてくださった神のその御名こそ、人間を絶望から救う最も尊いものであり、信仰者と神を結ぶ「絆」であるからだ。

聖書中にも「わたしの王、神よ、あなたをあがめ 世々限りなく御名をたたえます」(詩編145編1節)、「主よ、あなたはわたしの神 わたしはあなたをあがめ 御名に感謝をささげます」(イザヤ書25章1節)など神の御名を称える表現は枚挙に暇がない。

またイスラム教でも「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」と唱えることがイスラム教徒であることの証明になっているし、浄土真宗においても「南無阿弥陀仏」と唱えて弥陀に帰依することが救いの絶対条件になっているのは周知のとおりである。

高橋氏は、神の御名を汚すという涜神行為をなしたことで、幸福の科学全信者の信仰心を踏みにじった。さらに言えば、全世界の神を信じる人々を敵に回しかねない行為を恥ずかしげもなく犯していると言える。同氏にその自覚と責任を取る覚悟はあるのだろうか。

「仏陀は転生しない」は本当か?

また高橋氏は「釈迦は輪廻転生から解脱して仏陀になったはずなのに、また生まれ変わったの?」と、大川総裁の過去世が仏陀釈尊であることに疑問を呈している。

しかし事実として「仏陀となったら、この世への転生が不可能となる」と書かれた仏教経典は実は一つもない。よく引き合いに出されるパーリ仏典では、釈尊が「もはや生まれ変わらない」と“自ら宣言している”のであって、仏陀自身の転生(仏陀自身が希望して転生することなど)が不可能になると記されているわけではない。

大川総裁が「(仏陀であっても、)地上の人びとを救済するために、あえて人間の肉体に宿って出てくることはあります」(『悟りの挑戦・上巻』)と説かれている通りである。

また、悟りたる覚者が再び人々を救うために現れるという考えはどの宗教にもある。『聖書』では、イエス・キリストが再臨することが記されているし、イスラム教シーア派では、最後の審判の日にイマームが再臨すると信じられている。「人心が乱れた時期に救世主的存在が再び生まれ変わって、最後の審判を下される」という思想こそ宗教的普遍性がある考え方である。高橋氏がこうした宗教的教養を踏まえた上で書いているとは到底思えない。門外漢は黙るべきではないか。

大学認可の事実誤認

また幸福の科学大学の設置について高橋氏は「創立者の精神を学ぶなどの必修科目で大川氏の著作を教科書として使用する予定だった」と書いているが、そのような事実はなく、事実誤認も甚だしい。基本的事実関係を正確に調査せずに書くのが高橋氏の言う「科学哲学」の実態である。

また「科学的合理性が立証できていない『霊言(霊言集)』を本大学における教育の根底に据えるということが問題視された」としているが、そのような「霊言を教育の根底に据える」という申請を行った事実はなく、なんとしても同大学の設置を認めまいとする文科省の無理なこじつけにすぎない。高橋氏が文科省による「学問の自由の弾圧」に一方的に肩入れするのであれば、同氏こそ“権力の走狗”ではないか。

オカルトと宗教を混同する高橋氏

3週にわたって週刊新潮に掲載された高橋氏の論評で明らかになったのは、同氏が「オカルトと宗教の違いが分かっていない」という事実である。

高橋氏はアメリカで起きたオカルト現象であるハイズビル事件がフォックス姉妹のイタズラだったと指摘してみたり、手品師フーディニが霊媒師のウソを暴いた事実を挙げて、幸福の科学が30年にわたって築いてきた信用性を否定しようとやっきになっている。

しかし、これらいずれも「オカルト(神秘・超常)現象」であって、幸福の科学の持つ宗教性を否定する材料にはなり得ないということが高橋氏には分からないらしい。

そもそもオカルト現象とは、テーブルが勝手に動いたり、スプーンを曲げたりする神秘現象のことを指す。こうした現象は宗教にもままあるが、オカルト現象だけで宗教が成立することは決してない。

宗教が成立するには超常現象を超えて、人間の霊性・精神性を向上させる高度な「心の教え」が不可欠となる。仏教の「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」という3つの基本精神(三法印)やキリスト教の「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」という隣人愛の教えがそれである。人類の偉大な教師としてそびえ立つ霊性の高みが世界的宗教の開祖には不可欠なのだ。

幸福の科学はワールド・ティーチャー・大川総裁を信仰する新たな世界宗教であって、あの世の存在を証明する霊言を行いつつ、「正しき心の探究」として「愛・知・反省・発展」の現代的四正道を教義として押し弘めている。

科学哲学者である高橋氏は霊言の否定にこだわっているが、幸福の科学を否定したいのなら、オカルト現象としてではなく、正しく宗教現象として捉えるべきである。高橋氏は宗教的常識、教養を身に着ける努力もないまま、軽々しくコラムで扱うことの恥を知るべきではないか。

カルトと信仰団体の違いも分からない

また高橋氏は、3週目のコラムで大川総裁が明らかにしてきた数々の過去世を列挙し、「そんなことはあり得るはずもない。これこそカルトであることの動かぬ証拠だ」とでも言いたげに茶化している。残念ながら、高橋氏にはカルト(閉鎖的狂信団体)と信仰団体の違いもやはり分からないようだ。

カルトには、その特徴として、メンバーを社会から隔離し、家族とも面会させず、全財産を丸ごと没収するといった反社会的行動がよく見られる。

しかし幸福の科学の場合は、破壊活動や詐欺行為、強制的な入信、法外な布施の強要などの問題行動はまったく存在しない。カルトかどうかは、教義内容の問題ではなく、その宗教が行っている「行為」で判断されるべきであり、この点、霊言があるからといって幸福の科学をカルトとして分類することはできない。

もしそのようなことが許されるのであれば、宗教の教義に踏み込んでその正邪を議論しなければいけなくなり、まさに血で血を洗う宗教戦争の時代に逆戻りすることになってしまう。そうした不毛な論議を止めて、お互いの信仰を尊重する寛容性こそが今必要な考え方なのである。

まとめ・科学哲学のいかがわしさ

前回の小論でも触れたことだが、そもそも高橋氏が専門とする「科学哲学」こそ、カルト的ないかがわしさを備えている。

一例を挙げれば、いったい科学哲学者は、世界宗教として20億人が信仰するキリスト教の聖書が奇跡現象のオンパレードであることをどう説明するのだろうか。聖書には、「イエス・キリストは処刑から3日後に生き返り、500人の前に姿を見せたあと天に昇った」、「キリストは湖の上を歩いた」、「キリストは死後4日の人を生き返らせた」、「生まれつきの盲人を見えるようにした」、「パウロは白光で目が見えなくなったが、アナニヤの奇跡で治った」などといった具合で奇跡現象で満ち溢れている。

しかし、どれ一つ科学哲学で証明も説明もできるものはない。それでも世界の大多数はこの聖書の記述を事実であるとして信じているのである。そしてこの信仰こそが、人類社会を原始状態から脱却させ、複雑高度な政治経済社会へと発展させてきたのである。

その意味で、人間が神の子であり、偉大な可能性を秘めた霊的存在であることを否定する科学哲学者の方が、現代人を迷わせているあわれな人たちと言えるのではないか。

高橋氏は、「地獄のCIA」である週刊新潮と一体となって尊い信仰心を愚弄することを即刻止めるべきである。天に唾する不敬行為の代償は極めて重い。最後にその責任を取らされるのは高橋氏自身なのだ。

幸福の科学グループ広報局 部長 高間 智生