この記事は、隔月発刊の機関誌 「ザ・伝道」 第107号より転載し、編集を加えたものです。
Cさん(女性・40代)
父が決めた進路
「Cには、大学に行くだけの勉強に対する情熱がなか。すぐに働けるように商業高校に行きなさい」
「えっ?」
行きたい高校があり、成績も少しずつ上がってきたときだったので、私は父の言葉にショックを受けました。両親が大学や短大を出ているので、当然、自分も大学に行かせてもらえると思い込んでいました。
「文句があるなら、高校なんて行かんでもよか。中学を出たら働きなさい!」
有無を言わさない父の言葉。私の進路はすべて父が決めました。まるで、父の敷いたレールの上を走らされているようでした。
父への恐怖心
私の父は、中学校の英語教師でしたが、私が小学校3年生の頃に心臓を悪くして、退職することになりました。幸い、母が公務員だったので、なんとか生活は成り立ちましたが、それ以来、「母が働き、父が家にいる」という“夫婦逆転”の生活になりました。
寝たきり生活ではなく、日常生活はできました。ただ、父は家事など一切やらず、母が仕事と家事を両立させていました。昔ながらの家庭で、食事も父が手をつけないとみんな食べられず、お風呂も父が最初と決まっていました。
元教師の父は、その分、私たち子供に対する教育に熱心になっていきました。勉強、立ち振る舞い、箸の上げ下ろしまで口を挟む父。しつけにはうるさく、幼い頃から日本舞踊も習わせられました。特に長女の私に対しては厳しく、手が出ることもたびたびありました。
(まるで、家にも“先生”がいるみたいじゃない。それも恐い先生が・・・)
私は学校が終わって、家に帰るのがほんとうに嫌でした。そのせいか、中学生になると奇妙な行動をしていました。いつも1日分の着替えを持って学校に通っていたのです。
いざというときは、それを持って、近くに住んでいる祖母の家に逃げ込もうと考えていました。しかし、実際に実行する勇気はありませんでした。やはり、何よりも父が恐かったのです。
突然襲った激痛
商業高校を卒業した後、私は地元の会社の経理部に勤めました。ひそかに一人暮らしを期待していましたが、父は私の給料まで管理しはじめ、それも叶いませんでした。
就職しても、給料は自分には入らず、父から貰うお小遣いでの生活―。
しかも、自宅から会社まで片道1時間半もかかるうえ、残業が多く、体力的にきつくなる一方でした。
そのうえ、職場での人間関係もうまくいきませんでした。職場の上司が、必要以上に私にきつくあたるからです。私がトイレに行っている時間も計っていて、なにかにつけて怒られました。
(なんで、私ばっかり、こんな目に遭うの・・・)
後で聞いた話によると、自分の縁故者を入社させたくて、私を辞めさせたがっていたらしいのです。
「痛い・・・」
ある日、下腹部に激痛が走りました。
病院に行くと、尿管結石と診断されました。ふつうは中高年の男性がなるような病気です。「20歳前の女性の尿管結石なんて、はじめて見ました」と、医者も珍しがっていました。
思い当たることがありました。私は、ストレスからか、人の3倍ぐらい食べるようになっていたのです。お昼にお弁当を食べた後、大盛のチャンポンを食べて、さらにピラフをぺろりと平らげる―とにかく、食べても食べても満たされません。私は、今で言う「過食症」に近い状態になっていました。
その後、結石のせいで、お腹がパンパンに腫れ上がり、歩くにも足が上がらないような状態になりました。また、食べるとすぐ吐くので、病院で点滴を打ちながら、会社に行きました。
結局、精神的にもすっかりまいってしまい、私は入社2年足らずで会社を辞めることにしました。
家出
仕事を辞めてからしばらくは、家にいる気にもなれず、療養もかねて埼玉の叔母の家で過ごしました。気分転換にずいぶん旅行もしました。環境が変わったせいか、体調も少しずつ回復していきました。
アルバイトができるようになると、「早く家を出たい」という気持ちが日増しに強くなりました。そして、24歳のある日、私はバッグ1つを持って、何も言わず家を出ました。行き先は、京都。以前旅行したときに、いつか住みたいと思っていました。
「誰にも気を使わずに、大の字になって寝られるような生活がしたい」
それが私の願いでした。
生活が落ち着いた頃、父に知られないように、母親の職場にこっそり電話をしました。
「母さん、私、生きているから大丈夫よ。心配せんでね」
父に連れ戻されないように、固く口止めをしてから居場所を教えました。実家に帰るつもりは、私にはまったくなく、母も私の気持ちを察してか、無理に説得することはしませんでした。
母からの小包
ある日、母から小包が届きました。中には、 大川隆法総裁 の本が入っていました。
(この前、母さん、すごか本が出ているって言ってたな。これのことかな?)
最近、母は「 幸福の科学 」に 入会 したことを私に伝えてきていました。私は、半信半疑にその本を手にとって読み始めました。
その本には、 「親子の関係というのは非常に縁の深いもので、1回や2回の生まれ変わりでできたものではない」 と書いてありました。
(えーっ! 親子の縁って、あの世で約束してくるの?)
父が恐くて、自分に自信が持てず、不幸を環境のせいにしていた私。こんな人生が嫌でたまらず、「もし神様がいるなら、こんな人生早く終わらせて、天国に帰してほしい」とさえ思っていました。
しかし、この世は魂修行の場であり、親も、環境も、自分で選んで生まれてくることを知って驚きました。
そして、 大川隆法総裁の講演会 があることを聞いた私は、いてもたってもいられず会場に向かいました。
私は一言も聞き漏らすまいと、真剣に拝聴しました。話を聴いていると、なんともいえない懐かしい気持ちがしてきました。いつも孤独と不安でいっぱいだった私は、感激で最初から最後まで泣きっぱなしでした。
「なんでこんなに胸が熱くなるんだろう? 私も会員になって、もっとこの教えを学びたい」
感動を抑えきれず、その後すぐに、私は 幸福の科学に入会 しました。
「言うこと聞かんなら、勘当だ!」
「いつまでも、こんな状態じゃいけないな。そろそろ長崎に帰ろう」
幸福の科学の教え を学びはじめてから、「父とも和解しなくてはいけない」という気持ちが芽生えてきていました。
無断で家出をしてから、もう4年が経っていました。久々に実家の門をくぐるのに勇気は要りましたが、なんとか父と顔を合わせ、あいさつをすることができました。
しかし、自宅に住む気持ちにはなれず、市内にアパートを借りて、仕事をすることにしました。その後、職場の友だちの紹介で主人と出会い、結婚することになりました。結婚の報告をするために2人で実家に行くと、父は意外にも喜んでくれました。
「よか人やかね」
父は主人の人柄が気に入り、上機嫌。
ところが、結婚式の話になると、急に態度が一転しました。
「結婚はよかけど、親戚なんか呼んで派手に結婚式をするのはやめてくれ」
「えっ?」
主人と私は唖然としました。
昔から父は親戚づきあいが嫌いでした。だからと言って、「結婚式をするな」というのは、めちゃくちゃな言い分でした。結局、折り合いがつかないまま、「結婚式は絶対やりますから」と言い捨てて、逃げるように帰りました。
その後、突然、父が私のアパートにやってきました。母も一緒でした。ちょうど、主人と結婚式の打ち合わせをしているときでした。
その様子を見た父はカッとなって、いきなり主人の上に乗っかり、殴りつけました。
「結婚式をするなら、結婚もやめろ!」
「お父さん、やめて!」
母が必死になって止めました。
「言うこと聞かんなら、勘当だ!」
そう言い残して、父は怒ったまま帰っていきました。
結婚式当日の事件
結婚式当日。
父は“体調不良”を理由に参加できないということにしていました。式も終盤にさしかかった頃です。
「それでは、新郎新婦から、ご両親に花束の贈呈です」
司会者の言葉に従って、主人が母に花束を渡そうとしたとき、私は驚きました。
なぜか、そこにいるはずの母がいません。代わりに叔母が立っていました。後で聞いた話によると、式の最中に、「結婚式をやめろ!」という、ものすごい剣幕で怒る父からの電話があり、それを止めるため、母は急いで家に帰ったそうです。周囲の人は、私たちが動揺しないように、何事もなかったように隠していました。
新婚旅行から帰ってからも、勘当されている私は、実家に帰って父と会うことはできませんでした。長女、長男が生まれたときも、電話で報告はしましたが、病院へ孫を見に来る父の姿はありませんでした。
子供が“親善大使”に
「―Cちゃん、実家に行ってこんね。お父さん、きっと待っとるよ」
幸福の科学の仲間のMさんは、私が父との関係で悩んでいることを知っていて、なにかと相談に乗ってくれていました。すでに勘当されて6年近く経っていました。それ以来、同じ長崎に住みながら一度も父とは会っていませんでした。
「でも、私、勘当されとるけん・・・」
「大丈夫さぁ。子供を連れていってやらんね。お父さん、絶対喜ぶよ」
Mさんに背中を押され、2歳の長男を連れて実家に行きましたが、とても父と同じ場に居合わせる勇気がありません。
「これから 支部 の公案を受けるけん、この子を預かってもらってよか?」
私は玄関先で母親に長男を預けると、部屋にも上がらず、そのまま支部へ向かいました。支部の公案が終わり、ドキドキしながら実家に行くと満面の笑みを浮かべて長男と戯れる父の姿がありました。
「よか子になったね」
怒られるかもしれないと思っていた私は、あまりの父の変わりように拍子抜けしてしまいました。
まるで、子供が私と父の“親善大使”になってくれたようでした。それからというもの、子供たちを連れていくと、父が喜ぶので、私は実家に帰れるようになりました。
父との和解
Mさんに誘われて、 精舎研修 に参加するようになると、私の父に対する気持ちも次第に変わっていきました。
特に、 湯布院正心館 で研修に参加したとき、今まで充分に見えていなかったものが見えてきました。
それは、幼少の頃から、父に愛されていた自分でした。アルバムのなかにある、小さな私をまるで宝物のように大切に抱いている父の写真を思い出しました。
「そういえば、いつも父はたくさん写真を撮ってくれたな。年代ごとに整理されたアルバムがいくつもある。どういう気持ちで撮ってくれていたんだろう?」
鬼だと思っていた父の厳しいしつけも、実は大人になってから役立つことばかりでした。
また、自宅でよく勉強をしていた父の後ろ姿が思い浮かびました。いろんな本を読んでくれたり、読書の喜びを教えてくれたのも父でした。
進学についても、今考えると、私の実力や性格を充分知ったうえでの正しい選択だったと思いました。父への感謝の気持ちが込み上げ、「お父さん大好き!」と無邪気に思っていた幼少時代の自分を思い出しました。
そして結婚式の事件―。
「母が代わりに働いていて、プライドが傷ついていたんだ。だから、親戚を呼びたくなかったのかもしれない」
父の立場になって考えてみると、もう、水に流そうと思えるようになりました。
その後、私は実家に帰る前に、幼少時代のかわいがられていた写真を思い浮かべながら、 「家庭調和の祈り」 (※)を唱えるようにしました。心のなかで父と和解するイメージを何度も描いていくうちに、不思議なことに、勘当されたことも忘れるぐらい、お互い仲良く語り合えるようになっていきました。
※「家庭調和の祈り」:幸福の科学の 三帰誓願者 に授与される『祈願文(2)』に所収の経文。
「おじいちゃんのところに行こうよ」
「もう、自分もそんなに長くないかもしれんね・・・」
あるとき、父がぼそっと口にしました。
確かに、以前よりだいぶ痩せて、体調もよくなさそうでした。それでも子供たちが来ると、明るく元気に振舞い、孫2人を馬乗りさせながら喜んでいる父の姿がありました。
私と母が、「無理せんでね」と言っても、父はやめませんでした。
「おじいちゃんのところに行こうよ」
子供たちも、父が大好きになり、遊びに行くのをせがむようになりました。しかし、その後、父は入院し、孫たちと遊ぶこともできなくなりました。
父の愛が心にしみて
ある秋の夜のこと、病室でたまたま父と私だけになる時間がありました。
「身体が痛い」と言うので、私は父の身体をさすってあげていました。あんなに大きく感じた父の背中が、なんだかとても小さく感じました。
すると、呼吸器の隙間から、か細い、小さな声が漏れてきました。
「Cは、がんばってるね。ほんとうにがんばってる・・・」
父にはじめて心の底から褒められた気がしました。思わず涙がこぼれました。
数日後、父は静かに息を引き取りました。父の葬式のとき「お父さんに殴られたことが懐かしいです」と号泣していた主人。
主人も、1年ほど前に入会し、一緒に幸福の科学で学んでいました。
「―お父さん、Cのことが、かわいくて仕方なかったんだよ」
厳しくても、情の深い父であることを主人はよく分かっていたのです。
その後、母から、父が「Cのために」と言って、遺産を遺してくれたことを聞きました。そこに込められた父の愛が私の心にしみてきました。
(お父さん、ずっと私のことを思っていてくれてたんだ・・・)
この世限りではない親子の絆の強さを感じて、亡き父への感謝の気持ちでいっぱいになりました。
そのことに気づかせてくれたのは、幸福の科学の教えでした。時間は短くても、父と私は、最後にほんとうの父と娘になることができたのです。
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