娘のためにできることは、家族が前を向いて歩むこと

最愛の娘を事故で亡くした母の体験記

突然の交通事故で逝ってしまった長女。悲しみにくれ、加害者の少年を憎み、生きる希望を失くすなかで、遺された母は幸福の科学と出会います。「人の生命は永遠で、娘の魂も天国で生き続けている」と悟り、未来へ向かって歩み始めるまでの体験とともに、人生のヒントをお届けします。

( K.Tさん/女性/滋賀県/「ザ・伝道」第195号より転載・編集)

体験談 娘は天国で生きている。その事実が私の心を救った

平穏な朝の風景

最愛の娘、Mが亡くなったのは、19歳のとき。準備していた振袖を着ることもなく、20歳の誕生日を迎える前に、悲劇は起きました。その日――9月3日の朝、私は娘を助手席に乗せて、当時高校生だった長男に忘れ物を届けようと、車を走らせていました。約束の場所に着くと、助手席の窓を開け、弟に忘れ物を手渡しながら、「勉強、頑張りや」と、声をかける娘。「わかっとるわ」と答える長男。けれど、それが、仲よしだった姉弟の、最後の会話となってしまったのです。
帰宅すると、娘は、出かける支度を始めました。ファッションが大好きだった彼女は、有名アパレルメーカーに就職し、家から通えるH市内の店舗に勤務していました。その日は仕事が休みで、幼なじみのTちゃんとショッピングに出かける約束でした。
化粧品関係の仕事をしていた私も、出勤する時間です。「気いつけて行きな」。娘は、鏡に顔をくっつけるようにして念入りに化粧をしながら、仕事にでかける私に、そう声をかけてくれました。元気な娘の最後の姿でした。

事故

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その日の夜の8時ごろ。私がいつもよりも遅く帰宅すると、主人と、同居している私の両親は、すでに夕食を始めていました。
「遅くなって、ごめんな。夕方、Mに、お刺身買って帰るように連絡したんやけど、まだ帰ってないの?」
すると、電話が鳴りました。
「おばちゃん、ごめん。Mが事故った……」
娘の親友、Nちゃんからでした。詳しいことは分からないと言うので、きっと大したことはないのだろうと、私は主人と、市内の病院へ向かいました。そこに、救急車がすべり込んできました。ストレッチャーで搬送されてきたのは、血だらけの我が子でした。両手を力なくだらんとさせて、声も出せない状態です。娘は、そのままICUに運び込まれました。「いったい、何があったん?」と、私は、遅れてかけつけた娘の友達2人に問い正しました。
夕方、Nちゃんがショッピングに行った2人を呼び出し、3人で回転寿司を食べたあと、彼女の会社の同僚の男の子と、コンビニで合流し、1人ずつ彼の車に乗せてもらうことになった。最初にMが乗り、自分たちはコンビニで待っていたが、なかなか戻らない。救急車が通ったので、見に行くと、コンビニ近くの田んぼに車が突っ込み、大破していた――。
「頭蓋骨骨折、脊椎損傷、意識不明の危険な状態です」
医師の説明を受けても、その言葉は私の頭を素通りし、私は、「娘は必ず助かる」と信じていました。そして、娘の手をずっと握り続けたのです。けれど、Mは、その手を握り返すことなく、翌々日の夕方、静かに息を引き取ったのです。

悲しみにくれて

葬儀がすむと、私は娘の部屋にこもりきりになって、携帯に残されたメールを見ながら、泣き暮らしました。
「弁当箱、自分で洗わへんかったら、次、つくらんよ」
私は、社会人になった娘に、少しは自立してもらおうと、そう言っていました。けれど、かわいそうに思って、弁当を詰めてやった日には、「おかん、弁当、サンキュー!」とメールをくれた娘。
(厳しいこと言わんと、毎日つくってやればよかった。Mに会いたい!)
いくら悔やんでも、もう娘は戻ってきません。眠れない夜は、夜中に事故現場まで車を走らせ、(何で、私を残して、こんなところで死んだんや! )と、大声で泣き続けました。

加害者の少年

車を運転していたKくんは、大したけがもなく、葬儀が終わった数日後、両親といっしょに謝罪にやってきました。19歳の彼は、事故を起こしたとき、100キロを超えるスピードを出し、ハンドル操作を誤って電柱に激突したのです。
「乗せてと言われたから、乗せた」
彼が反省の色も見せず、そう言ったとき、その場にいた家族や親族は、怒りに震えました。温厚な父までもが、「お前、わしの車に乗れ! 殺したる!」と怒りをあらわにしました。初孫のMを、父は、それはそれはかわいがっていたのです。優しい父に、そんな言葉を吐かせるほど悲しませた少年を、私は本当に憎いと思いました。私は、少年を責め、友達を責め、何よりも自分を責めました。
(もし、あの日、Nちゃんが2人を呼び出さなければ……。私が、「絶対、夕飯のおかず買って帰って!」と、強く言っていれば……。私のせいや。ごめんな、M。許して……)

娘はどこに

四十九日が明けるまで、7日ごとに僧侶が家にやってきて、供養の読経をしてくれました。私は、すがるように僧侶に尋ねました。
「娘は、どこに行ったのでしょうか?」
「はい、お浄土です」
ただそれだけです。何度きいても同じでした。私は、とても失望しました。娘があのまま消えて無くなってしまったとは、どうしても思えなかったのです。
「にぎやかなのが好きで、さびしがりやのM……。たった1人で、どこへ行ってしまったの。Mがどこに行ったのか、知りたい」
そして、ある日の夜。以前、勤めていた会社の同僚だったSさんから、電話がかかってきました。
「娘さんのこと大変やったね。きっとあなたが、『Mはどこ?』ってずっと苦しんではると思って。Kやんにも、Mちゃんにも幸せになってもらいたくて、電話したのよ」
私は、Sさんの気持ちが嬉しくて、Sさんが信者になっているという幸福の科学の 支部 に行く約束をしました。

幸福の科学の支部で

(わぁ……明るい! それにきれいやわ。ここが宗教?)
Sさんの案内で、初めて幸福の科学の支部を訪れた私は、とても驚きました。支部長は、「私たちが信じているのは、 主エル・カンターレ という神様で、 大川隆法総裁 は、その化身です」と、教義である仏法真理※を説明してくれました。そして、人の生命は永遠で、転生輪廻を繰り返していること。あの世は美しい世界で、事故や病気で亡くなっても、あの世に還れば元の元気な体に戻ることなどを教えてくれました。
私は、「この教えは本物かもしれない」と思いました。娘も天国で元気に暮らしているのだったら、どんなに救われることでしょう。
それからしばらくして、Sさんが、何年も前に息子さんを亡くしたという女性、Iさんを紹介してくれました。
「幸福の科学の 精舎 で研修を受けたら、瞑想のなかで、天国の息子に会えたんや。『素晴らしい世界にいるから、心配せんで』って。Kさんの娘さんも、きっと天国から見てはるよ」
彼女は、柔らかい笑顔でそう言いました。

支えてくれる仲間

私は、さびしくて悲しくて、どうしようもなくなると、支部に行くようになりました。
「あの世にも、天国・地獄があってな。善い心で生きたら天国に、悪い心で生きれば地獄に行くんや」
「泣いてばかりいると、天国の娘さんも悲しむよ。今は悲しくても、いつか、必ず会えるから」
霊的人生観や信仰の話を分かりやすく教えてくれた法友※のみなさんや、私を慰め、涙を流しながら何時間でも話を聴いてくれた支部長。「この人たちの言うことなら、信じられる」と、私は、三帰誓願※を決意したのです。そして、家に閉じこもってばかりでは、かえって落ち込むからと、仕事にも復帰しました。
※仏法真理:主エル・カンターレが説かれる、人類普遍の教えのこと。
※法友:主エル・カンターレを信じ、共に幸福の科学の教えを学び、高め合う仲間のこと。
※三帰誓願:仏・法・僧の三宝への帰依を誓い、仏弟子としての精進を誓うこと。入信の儀式。

笑顔が消えた家族

けれど、娘が亡くなって以来、わが家では、悪いことばかりが続きました。父の認知症は悪化し、空き巣に入られ、私も車で事故に巻き込まれ……。長男までもが、人が変わったように荒れ狂い、私や母に暴力をふるうようになりました。車で買い物に出かけても、気に入らないことがあると、「お前のせいや!」と、後部座席から私を殴って暴れる長男。優しかった息子の変わりように、涙があふれました。長男も、姉の突然の死で、悲しみのあまり、もがき苦しんでいたのです。
「Kさんが悪い心でいると、悪いことを引き寄せて、自分も家族も不幸になるよ」
「恨み心で恨みは解けないよ。人を憎んだり、悲しい悲しいと暗い気持ちでいると、その暗い心に悪霊が寄ってきて、悪いほう悪いほうに行くんだよ」
法友はみな、そう言いました。
(そんなん言われても……。私の悲しみなんて、誰にも分からない!)
しかし、言われてみれば、暴れている長男は、別人のような目をしていました。悪い霊が憑いているのなら、納得がいきます。私は、支部や精舎で、「悪霊撃退祈願」を受けました。私自身も、体が鉛のように重かったのが、祈願を受けると、心も体も軽く楽になりました。
(このままでは、いけない。私が心を変えなければ)
私が祈願を重ね、心を調えていくと、長男も少しずつ落ち着きを取り戻していったのです。

娘が夢に

年が明けて、お正月。私は不思議な夢を見ました。それは、私と娘との、ありふれた日常の光景でした。「あんたには、もう、ほんまに困るわ。まったく……」。私はそう言って、娘の頭に手を置き、クシャクシャっと、髪の毛をなでてやったのです。
たったそれだけの夢でした。けれど、夢から醒めると、娘の髪の毛の感触が、ありありと私の手に残っていたのです。
(あれは絶対、夢なんかやない! Mは、ほんまに生きとるんや!)
笑顔で出てきたM。きっと天国に還ったのだと、私は心から安心しました。

「与える側」の人生へ

天国の娘のためにも笑顔で生きていこう――。そう誓ってはみたものの、心はすぐに、事故が起こったあの日に逆戻りしてしまいます。街で、楽しそうに買い物する母娘の姿を見かけると、うらやましくて、涙が止まりません。私は、大川総裁の御法話CDを聴き、経典を読んで、自分の心を励ましていきました。
「苦悩や悲しみがあるということは、私たち人間に、選択をせまっているのです。選択とは、何か。つまり、私たちのひとりひとりが、与える側の人生を選ぶか、与えられる側の人生を選ぶか。その選択です」。経典 『太陽の法』 には、そう書かれていました。苦しくても、悲しくても、愛を与える側に立つ。私にとっては、とても高いハードルでした。
息子さんを亡くし、泣いてばかりいたIさんも、支部長に、「いつまで愛を奪って生きるつもりですか!」と叱咤され、与える側に立とうと決意した日があった、と話してくれました。私も、仕事で若い女性にエステをすると、娘のことを思い出して落ち込んでいましたが、娘の代わりに、この子をうんときれいにしてあげよう、と気持ちを切り替えると、自分も元気になれました。
けれど、月命日に自転車に乗って、1人で線香をあげにくるK少年を前にすると、私の心は揺れました。反省しているようには見えず、「許せない」という思いが募ります。それでも、彼も「仏の子」。私は、無表情で無反応なこの少年にも、何とかこの真理に気づいてほしいと、幸福の科学の書籍や布教誌を手渡し、支部にも連れて行きました。

法廷での意見陳述

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7月の終わりごろ、事故の裁判が始まりました。法廷は何度か開かれ、9月の最後の公判で、私は「意見陳述」をしました。

意見陳述
愛娘のMを失って、はや1年がたちました。立場は違えど、同じ事件を巡って苦しむ者として、加害者側もさぞつらかろうと、言いたいことも我慢してきました。親御さんも、せめて命日くらい、花を持たずとも、お参りに来てくれていたなら、私たち遺族の気持ちも少しは癒されていたことでしょう。私たちの気持ちを知ってもらうことなく、今日を迎えたように思います。
けれど、恨みつらみの暗い心で、病気になったり家族がバラバラになったりしたら、Mはきっと苦しむ。そんな思いは絶対にさせたくない! ならば、一日一日を大切に、周りの人に感謝し、前向きに生きることが、Mにしてあげられる唯一のことだと思い、私も日々、努力してきました。
Kくんには、命の尊さを十分認識し、2度と私たちのように悲しむ人をつくらないと誓ってもらいたいと思います。一瞬の驕りから起こしてしまった重大な事故により、あなたの人生も険しいものになったことでしょう。けれど、まだまだ未来ある若者です。あなたでしか分からないこと、あなただからこそできることもあろうかと思います。今は天使になっているMも、あなたのこれからの生き方を見ていることでしょう。厳しい道かもしれませんが、どうか前向きに頑張ってください。」

少年に下った判決は

10月5日、判決が下りました。危険運転致死罪。6年の求刑に対し、3年の実刑判決でした。しかし、驚いたことに、少年側は、控訴したのです。
(何で? あなたは私に、どんな刑でも受ける、一生かけて償う。そう言うたやん!)
少年の意思ではなかったのかもしれません。けれども私は、大きなショックを受けました。控訴審は、翌1月、大阪の高等裁判所で行われました。公判当日、裁判所の廊下を、弁護士と2人だけで歩いてくる少年を見て、私は胸をつかれるような思いがしました。彼の両親は、息子の人生が決まろうという最後の法廷に、何と、姿を見せなかったのです。
(ああ、この子。たった独りで。この子も、かわいそうな子なんやなぁ……)。一瞬ではありましたが、心をよぎった少年への思い。その慈悲のかけらのようなものは、今でも私の心の片隅に残っています。

娘を偲んで

結局、控訴棄却で3年の実刑が確定し、Kくんは、その年の2月から服役しました。私は静かに娘のことを偲びたいと思い、11月、主人といっしょに、総本山・那須精舎で「『故人の徳を偲ぶ瞑想』研修」に参加しました。研修の1日目に、故人に宛てて、手紙をつづりました。

M。あなたは、心が純粋で優しい子でしたね。小さいころ、私が疲れて仕事から帰ると、「おかあちゃん、お帰り」と走ってきて、ほっぺにキスしてくれました。それだけで、私はとても癒されました。あなたのおかげで、私は、幸福の科学と出会うことができました。今度は、あの世で会いましょう。ありがとう、M。

翌朝、書いた手紙を、お焚きあげしてもらいました。その日は雲ひとつなく、真っ青な空が、どこまでも広がっていました。手を伸ばせばすぐそこに娘がいて、私たちを見守っているように感じました。
娘を失った悲しみ、加害者の少年とその両親への憎しみ、幸せそうな母娘への嫉妬。あらゆるドロドロした思いも、仏の慈悲の光で、きれいに洗い流されていくようでした。仏の大いなる御手に優しく抱かれているような安心感に包まれて、私は、心から癒されていきました。

天国で娘に会えるその日まで

数年後。Kくんが、予定よりも半年早く出所してきました。以前より太った彼の姿を見て、(刑務所の塀のなかで楽してたん?)と、心が揺れなかったわけではありません。けれど、(この子を許すのも、真理に導くのも、私の使命。「人生の問題集」や)、と考えると、少しは前向きになれました。私は、映画「神秘の法」のチケットを2枚、彼に手渡しました。その後、「妹と観に行った」と言っていました。
娘を失った悲しみは、今はまだ、完全には癒えてはいません。けれど、私には信仰があり、愛する家族や法友がいて、家もあり仕事もある。そう感謝できる私は幸福です。もし、あのときSさんが、私を幸福の科学に導いてくれていなければ、私はずっと、恨み憎しみ悲しみの毎日を送っていたことでしょう。だから私も、縁ある人みんなに愛を与え、仏法真理を伝えていこうと思います。天国で娘と再会したときに、「おかん、よう頑張ったな」、そう言ってもらえるように。

書籍で学ぶ 死後の世界について

『信仰のすすめ』(大川隆法 著/幸福の科学出版) より抜粋したメッセージ