正しい民主主義には宗教が欠かせない

人権の根拠には「人間、神の子」の考えがある

『朝の来ない夜はない』/第4章 仏国土ユートピアの実現

幸福の科学の思想が中国に広がることは、どういうことを意味するかと言うと、最終的には、「信教の自由」を認めざるを得なくなるということを意味します。

「信教の自由」「信仰の自由」というものは、実は、民主主義の基礎であり、これがなければ、民主主義というものは成り立たないのです。

もし、人間を、「物や機械などと同じである」と考えたならば、人間の価値というのは、基本的に土くれや石と同じようなものであり、尊さはありません。人間は、仏の子、神の子であるからこそ尊いのです。

それが、民主主義で言う「人権」の本当の意味なのです。人間が仏の子、神の子であるからこそ、人権を大事にしなければいけないわけです。

民主主義の源流には、魂の「平等」がある

『人生の王道を語る』/第7章 黎明の時代

民主主義の根本を探れば、それは救いの原理であり、多くの人びとへの勇気の原理であり、また、勇気を与えられた人びとが、新たにチャンスをつかみ努力することによって、最大の繁栄の原理ともなったものなのです。それが民主主義の源流です。仏が教える平等とは、そういうことです。みなさんは、その魂の出発点において、その魂の光においてダイヤモンドであるということを、宗教は教えているのです。

もちろん、過去における幾転生を通して、魂の器に大小はあるでしょう。また、得意・不得意もあるでしょう。その姿かたちに違いもあるでしょう。しかし、いかにそのかたちは違えども、大きさは違えども、現在の光り方は違えども、すべての人の魂はダイヤモンドであるということを教えているのが、宗教なのです。だからこそ、それぞれの器に合わせ、環境に合わせて、この珠玉の光を、ダイヤモンドの光を磨き出せと教えているのです。これが根本における「平等」です。

宗教が、「民主主義の担い手」を生み出す

『政治哲学の原点』/第1章 政治哲学の原点/

民主主義の中心的な担い手になるべき人々は、やはり、「考える人」でなければならないと、私は思っているのです。「考える人」でなくてはいけません。

それは、“Thinking Man”というか、造語になるかもしれませんけれども、“Thinkable Man”です。「考えることができる人間」によって、民主主義的な成果が紡ぎ出されていかなくてはならないと思います。

そういう“Thinkable Man”、あるいは、“Thinkable Men”がいることによって、マスコミが多様な情報を提供することにも意味が出てくると思うのです。(中略)

宗教の多様性を認めると、個人として人格を陶冶することや、教養を深めること、それから、精神レベルを高めることを促し、先ほど述べた、“Thinkable Man”「考えることができる人間」を、多数、輩出することができます。

宗教と学問が協力して、「考えることが可能な人間」をたくさんつくることができます。それは「自由人」を生むことになるでしょう。

数多く生まれてくる「自由人」は、一党独裁型のイデオロギーを押しつけたかたちでの、「ただ従え」という考え方の国体にはそぐわないでしょうが、そうした人たちをつくっていくことが、おそらく、未来のリーダーを数多くつくっていくことになると思います。

権力者に宗教性がなくなると、国民は”機械”になる

『政治と宗教の大統合』/第2章 政治と宗教の大統合

なぜ、全体主義的な国家が生まれるかというと、それは、その国の権力者に宗教性がなくなっているからです。宗教性がなくなっているからこそ、国民が圧迫され、苦しむことになるのです。

権力者が、本当に神仏を信じ、「国民に仏性あり、神性あり」ということを信じているならば、そのようにはなりません。しかし、唯物論的なものの考え方、すなわち、「この世だけがすべての世界だ」という考え方を持っているならば、権力者は最高の権力を求め、その結果、人々は“機械の一部”として扱われるようになっていきます。

つまり、国民は、権力者のために奉仕する“機械”としてのみ存在を許され、そうでない場合には、弾圧され、粛清され、殺されることになるわけです。

国の舵取りというのは、非常に大きな問題であり、知らず知らずのうちに、そのような方向に向かっていくことが多いのです。

民主主義国も、自国の堕落・退廃を律する心が必要

『メシアの法』/第3章 メシアの教え

民主主義国のなかでも、自分たちを堕落・退廃させていくようなものに対しては、一定の、それを律する心は必要なのではないかと思います。

自由主義のなかにも、単なる堕落につながるものもあることはありますので、ちょっと気をつけたほうがよいのではないかと思います。「堕落する自由」は悪魔もつくり出すことができますので、西側といわれる価値観を持っている人たちのなかにも、「自分たちを律するもの」が必要であり、「社会に対する責任感」あるいは「人間の幸福に対する責任感」を感じる考え方を持つ必要があります。

ですから、宗教的には教会がいくら「キリスト教を信じている」などと言っても、やはり実際上、それは何らかの意味で地上で反映されなければいけないものだと思います。

唯物論と民主主義が合体すると、「共産主義」が生まれる

『自由・民主・信仰の世界』/第1章 自由・民主・信仰の世界

トクヴィルは、「宗教は一見、自由と対立するようにも見えるけれども、そんなことはない。内心の自由が認められるということは、人間としての価値や認識力が非常に高まることになって、人間が堕落するのを防ぐ力がある」と強く言っているわけです。(中略)

トクヴィルは、「後に、マルキシズム(マルクス主義)が広がって、唯物論と民主主義が合体していったら共産主義ができる。そういう時代が来る」ということを、ある意味で予見していたと思われるのです。

唯物論的な共産主義は、いちおう、「民主主義」を標榜はしています。ただし、それは、この世の世界のみにおける民主主義、結果平等だけを求めていくような民主主義です。要するに、「お金持ちや成功者に対する嫉妬を合理化し、そうした人たちをみな引きずり降ろして平等にする」というようなことを大義名分にしているわけです。(中略)

そして、「平等」のはずだったのに、いずれ、指導者が必要になるため、やはり、指導者と指導者を守る人たちが出てくるようになります。結局、官僚制ができて、その上に独裁者が出てくるわけです。これが共産主義の流れです。

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