先の大戦で陸軍に入隊し捕虜(ほりょ)となって満州で8年間抑留された経験を持つSさん。全体主義国家に侵略(しんりゃく)され、自由を奪われるとはどういうことなのか。Sさんに戦争体験を伺いました。
(S.Kさん・栃木県・90代・男性)

月刊「ザ・伝道」228号より転載・編集

体験談本当の平和とは何か

大切な家族と日本を護るために

1922年3月、私は満州の奉天(ほうてん)で生まれました。
名古屋中央放送局から満州に派遣(はけん)されていた通信技手の父と、母、姉2人、兄2人、弟1人の8人家族。父の仕事の都合で2歳で帰国してからは、一家は名古屋で暮らしました。

幼い頃より、父母から「日本のために戦うことは、家族や子孫の幸せを守ること」と教わっていた私は、いつしか、自分も軍人になって国に奉公したいと思うようになりました。それが男として当然のことだと感じていたのです。

そして、青年学校教員養成所を卒業したばかりの1944年、徴兵検査を受け、21歳で大日本帝国陸軍に入隊しました。
(日本の戦況は、いよいよ厳しいようだ。お国のために一矢報いたい…)
私が入隊する2年前の1942年、ミッドウェー海戦で大敗して以降、日本は厳しい状況に立たされていたのです。

私は、満州に渡り、過酷な初年兵教育を受けました。
しかし、ある朝、突然耐え難い腹痛に襲われ、陸軍病院に入院することになったのです。軍医に診てもらうと盲腸でした。手術も行いましたが、なかなか退院できず、やきもきする毎日。そうこうしていたある日、衝撃的な知らせが飛び込んできました。

私が入院しているあいだに、私の部隊に出陣命令が出され、台湾沖で壊滅的な被害にあったというのです。ほとんど生き残っているものはいないだろうということでした。

(私は入院している場合か。私だけが生き残ってしまった…)
共に訓練を受けた仲間たちの顔が思い出されます。私はやるせない気持ちで、ベッドのシーツをぎゅっと握ったのでした。

終戦。そして、捕虜収容所へ

戻るべき部隊を失った私は、ハルビンの第四軍司令部に配属になり、戦闘の報告書作成を命じられ、任務にあたっていました。
そして、1945年8月15日。
「正午に重大な放送があるからラジオの前に集まるように」との連絡がありました。時刻になり、司令部の全員がラジオに耳を傾けます。

「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す―」

それは、終戦を告げる、玉音放送でした。
(日本は負けたのか)
顔を硬直させる者、ぼろぼろと涙を流す者。
その場にいたみなが悔しがりました。

そして私にとっては、この日が運命の転換点となったのです。終戦の数日前に、日ソ中立条約を破って満州に侵攻してきたソ連軍に捕らえられ、捕虜の身となってしまいました。

武装解除をさせられた後、満州の牡丹江(ぼたんこう)に集結を命じられ、常時1000人以上が収容される大きな捕虜収容所に入れられることになりました。

収容所といってもただの野原。みな、持参したテントと藁(わら)布団での野営生活を強いられました。そこら中に、銃を持ったソ連軍や、ソ連が支援していた中国共産党軍の兵士が見張っているため、抵抗もできず、私たち捕虜はただただ無力でした。

そして収容所では、軍曹の私が一番上の階級だったため、食料の分配など、捕虜の管理をソ連軍に命令されたのです。そこの食事は家畜並みで、粟やコーリャンというモロコシが支給されました。当然ながら食器はないため、皿の代わりに兵士の帽子に食事を入れて歩きます。

衛生環境も悪く、シラミを媒介とする発疹(ほっしん)チフスが流行(はや)り、衰弱死する者と併せて大量の死者が毎日出ました。多い日は1日に200人ほどが命を落としたこともあります。

(日本に帰りたい。母さんに会いたい…)
異国の地の夜、星空の下で私は収容所の仲間たちと集まり、日本の唱歌を歌いました。
蛍の光 窓の雪 書(ふみ)読む月日 重ねつつ―
互いに「じきに帰れる。あと少しだ。頑張ろう、頑張ろう」と肩を叩いて励ましあったのです。

シベリアに消えた仲間たち

そしてある日、ソ連兵から「捕虜をダモイ(帰国)させるから1000名ずつのグループにまとめて汽車に乗せる支度をさせろ」と指示されました。

「ついに日本に帰れるそうだ! 良かったな」
そうやって私は声をかけながら隊を編成しました。しかし、数カ月後になって、「日本へ帰れる」と笑顔で収容所を出ていった仲間たちがたどり着いた先は、親兄弟のいる日本ではなく、極寒の地、シベリアの収容所だと知ったのです。

シベリアで、ソ連軍に過酷な強制労働を強いられた仲間たちの多くは、母国の土を二度と踏むことなく命を落としていったと耳にしました。

(俺は、「日本に帰れるぞ」と言って、皆をだましたことになるのか―)
自分も真実を知らなかったとはいえ、後悔が募ります。しかし、今となってはどうすることもできないのでした。

そして収容所での野営生活も一年が過ぎたころです。ある日の日中、中国共産党軍の兵士の声が収容所内に響き渡りました。
「Sはどこだ。出てこい!」
「はい……私です」
私が前に出ると、すぐに数人の兵士に捕えられました。そして、「反動分子」として引っ立てられ、連れて行かれた場所は牢獄でした。
収容所を取り仕切っていた私が目障りだったのでしょうか。事情聴取も取り調べもなく、突然、牢屋に入れられたのです。

(俺が何をしたっていうんだ……)
牢には私のような元日本軍の軍人が数多く投獄されていましたが、中にはソ連か中国共産党軍のスパイと思われるような日本語の達者な中国人も紛れていました。
スパイがどこに潜んでいるかわからない、心打ち解けられる人はいない―。

閉鎖的な環境で1年近く閉じ込められるうち、私は負の妄想に取り憑かれるようになっていったのです。
(俺は、ここで殺されるんだ。俺は死ぬんだ)
私は、帰国はおろか、自分に未来があるとは到底思えないのでした。

「母さん、Kは帰ってきたよ」

ここが死に場だと思っていたところ、私はある日突然、牢から放り出されました。

あてのない私は、ひとまず牡丹江の日本人難民所を頼ることにしたのです。日本人難民会が親切にしてくれたおかげで、赤十字病院のボイラー炊きなどの仕事や居候(いそうろう)先を得ることができ、なんとか生きる道をみつけました。

しばらくそうして暮らしていましたが、いっこうに帰国のめどは立たず、周囲の勧めで同じ日本人難民の女性と結婚し、生活の基盤を作ることにしました。
そして迎えた、1953年。私のところにやっと日本人引き上げの知らせが届いたのです。

終戦からじつに、8年の歳月が流れていました。待ち望んだ帰国― 。
「母さん、Kは日本に帰るぞお!」
私は嬉しくて、人目も気にせず、空に向かって大声で叫んでいました。郷里の母にこの声が届くような気がしたのです。
同年9月6日、私は引き上げ船「高砂丸(たかさごまる)」に乗りました。すし詰めの船体で何時間も波に揺れていると、ついに日本が見えてきました。

甲板(かんぱん)に出て舞鶴港を見ると、そこには家族の帰国をまだかまだかと待ち望む人の群れがあります。そしてその中に、何度も夢で見た、あの母の姿をみつけたのです。
「母さーん! Kだよ!」
「K! よく帰ってきたね……」
出兵して以来約9年ぶりの再会。ハンカチで目をおさえている母の顔を見て、私はやっと、生きて帰ってきたのだと実感したのでした。

人は死んだらどこへゆくのか

帰国した私は、まもなく北海道で中学校の社会科教員を務めることになりました。仕事にも慣れ、平穏な毎日が続きましたが、ふと戦争で命を落とした仲間のことを思い出しては、「人は死んだらどこへいくのか」と、霊的なことに思いをはせるようになっていったのです。

答えを求めていくつもの宗教書を読みました。しかし、私の問いに明確に答えてくれる教えは、なかなか見つけることができませんでした。
そして、すでに教員を退職していた1989年、友人の勧めで大川総裁の書籍『太陽の法』に出合ったのです。

「人間が死んで、あの世に還っても、生きていたときの記憶は、少しも失われません―」

(え、どういうことだろう……)
『太陽の法』には、人間の本質は肉体ではなく魂(たましい)であり、この世とあの世を何度も生まれ変わりながら魂を磨いていることや、霊界(れいかい)と言われる世界の様子、宇宙のはじまりの真実など、壮大な教えが説かれていました。

(俺はこれが知りたかったんだ―)
私は、それから『仏陀再誕』『永遠の法』『黄金の法』など、大川総裁の書籍を夢中で読みあさったのです。そして、1990年に幸福の科学の会員(※1)になり、仏法真理(ぶっぽうしんり)を学びはじめました。

2007年に妻に先立たれ、私はさらに本格的に心を見つめていく決意をして、約2年前に、幸福の科学の晩年修行の場であるシニア黄金館(※2)に入所したのです。

シニア黄金館には共に教えを学ぶ仲間たちが集い、毎日、反省、瞑想(めいそう)、祈りの実践や、経典や法話の学習、体力づくりなどを行っています。
たくさんの法友(共に教えを学ぶ仲間)がいるおかげで、私はちっとも寂しくありません。とても楽しく、幸福な晩年を過ごすことができてありがたいと感じる毎日です。
(残りの人生、幸福の科学の教えを学んで「心の総しめくくり」をしよう―)

※1 幸福の科学の会員になる方法について、詳しくはこちら
※2 シニア黄金館:60歳以上の会員信者を対象にご用意している「晩年出家制度」において、宗教修行に取り組んでいただくための宗教施設です。ご興味がある方は、お気軽にシニア事業室までお問い合わせください。TEL 03-6384-0112


ふせんを貼って何度も読みこんだ書籍『仏陀再誕』。

幸福の科学のシニア黄金館(栃木県宇都宮市)

自分の人生と祖国への誇りを取り戻して

シニア黄金館で「生涯反省」に取り組んでいくと、やはり、あの戦争のことを考えて悶々とすることがありました。

先の大戦のことを「日本の侵略戦争だ」「日本は中国や朝鮮半島の人々を傷つけたのだ」と決めつける戦後の風潮に、違和感を覚えると同時に、元軍人として、とても悔しい思いを持ち続けてきたからです。

しかし、そんな苦しみが解放されるできごとがありました。
大川総裁が霊的なお力で、東條英機(とうじょう・ひでき)首相や牛島満(うしじま・みつる)中将などの軍人の霊言(れいげん)を行い(※3)、その本心を聞いてくださったのです。

そして、霊言によって、「戦前の軍人は人格的に立派な方々だった」「日本は侵略国家ではない」という真実を明らかにし、先の大戦の歴史認識を改める社会啓蒙に取り掛かってくださいました。

大川総裁がおっしゃる通り、あの戦争は、日本が自国の利益のために始めたのではなく、欧米列強に虐(しいた)げられていたアジアの同胞(どうほう)を解放するための「聖戦」でした。私を含め、当時の軍人たちは、その共通認識を持ち、使命感から、自分の命を惜しまずに戦地に向かいました。

戦いには敗れてしまったものの、日本のおかげで第二次世界大戦後に欧米の植民地支配から解放され、独立できた国は数多くあります。

私は、自分が命をかけて挑んだ戦いが、「間違い」ではなかったのだと明らかになったことで、「自分の人生」と「日本という国」に、改めて誇りを持つことができたのです。本当に心が救われる思いでした。

※3 東條英機首相や牛島満中将などの軍人の霊言:『公開霊言 東條英機、「大東亜戦争の真実」を語る』『沖縄戦の司令官・牛島満中将の霊言』として幸福の科学出版から発刊。

従軍慰安婦問題の真実

韓国の”元慰安婦”の方々が、私が過ごした満州の牡丹江に強制連行させられたと証言していました。しかし、真実は違います。
慰安所は軍の運営ではなく、朝鮮人経営者が商売として営んでいましたし、働く女性たちもいわゆる”プロ”の方々でした。

私はそれを現地で見て、聞いてきました。ですから、強制連行などは全くありえないことです。日本軍の規律はとても厳しく、上官からは「慰安所には行くべきでない」とはっきり注意が出されていたくらいです。私は生き証人として、戦後の間違った歴史認識を改めていきたいと思います。

今、中国や北朝鮮という全体主義国家が日本の平和を脅(おびや)かそうとしています。このような国に日本が侵略されると、私たちは人権も自由も奪われ、どれほど辛い日々を送ることになるか…。
ソ連や中国共産党軍の捕虜となり、投獄された経験がある私だからこそ、日本に迫っている危機を実感を持って語ることができます。

戦後教育によって、軍事力を持つことがすべて「悪」のように思われるようになりましたが、国防は当然のことです。それは大切な人を守ることであり、平和を守ることなのです。私はこの体験談を通して未来を担う若者たちに、そのことを伝えていきたいと思っています。

書籍で学ぶ自由と平和を守るために

『国を守る宗教の力』より(大川隆法 著/幸福の科学出版)

自由のもとになる信仰

私は、常々、「自由の大国をつくれ」と説いていますが、自由というのは、本当に大事な価値です。
自由なくして平等だけを求めると、強力かつ強大な国家権力によって、自由が簡単に押しつぶされてしまうことがあるので、「自由の確保」は大事なのです。

そして、自由のもとになるのは信仰です。
信教の自由がなければ、言論の自由も出版の自由も、何一つ守ることはできません。

信教の自由とは、神仏が「人間の尊厳」を守ろうとしておられる部分に当たる、最も大事なものなのです。

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