最高裁決定を受けての反論

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最高裁は、2015年7月21日、納骨壇及び永代供養に関して幸福の科学の元信者らの返金請求を一部認めた昨年12月付の東京高裁判決に対する幸福の科学からの上告受理申し立てを「受理しない」との決定を行った。

最高裁の不受理決定は、最高裁の判決と異なり、「判例」としての拘束力はなく、今後他の地裁・高裁が同一論点について異なる判断を出すことも理論的に可能である。しかし、この最高裁の決定は、人間の魂の救済に従事する宗教団体の価値、宗教の御布施に込められた当事者の真心や尊さを理解せず、信仰行為である供養行為や御布施を即物的な契約に引き直して理解した上記東京高裁判決を追認する極めて不当な決定であり、既存仏教における御布施の意義に対する理解を窺うこともできない。

既存仏教における無私無償の信仰行為としての御布施の意義

例えば、御布施について解説した財団法人全日本仏教会の発刊する雑誌、『全仏』(2010年11月号)の記事では、御布施の意義について以下の通り説明されている。

「布施(ふせ)とは仏教が成立した2500年ほど前のインドの言葉です。梵語(サンスクリット語)では「檀那(ダーナ)」といい、慈しみの心をもって他人に財物などを施すことを指します。布施には「財施」(金銭・衣服・食料などの財を施すこと)、「法施」(仏の教えを説くこと)、「無畏施」(災難などにあっている人に寄り添い、不安を取り除くこと)の三種があり、布施行という悟りを開くための修行の一つで「六波羅蜜」にも挙げられているように仏教の根幹的な実践行でもあります。(中略)金額についても布施をされる方の慈しみの心にもとづくもので、商品と同じように定価とすべきものでなく、その方の信仰にもとづく宗教的な行為です。」

すなわち、宗教を信仰する信者が御布施を捧げる行為は、修行行為の一環として、自らを利する思いなく真心に基づいて金銭などの財物を捧げる信仰行為であり、これによって、魂の永遠性を説き、その魂の向上を導き、悩める衆生を救済するという極めて公益性の高い事業に従事する宗教者の聖なる生活が支えられる。

そして、一般社会の取引行為においては、「人は見返りを求めずして何かを行うことはない」という社会常識が存在するが、御布施は、これと正反対の無私無償の行為を行うがゆえに尊い価値を有するのである。

著名な宗教学者である駒澤大学の洗建(あらいけん)名誉教授も、「「破魔矢」などが、定価販売されていても税務上は物品販売ではなく御布施として扱われている例でも分かりますが、金額(奉納の目安)が定まっていること自体でお布施としての宗教的な意味が失われるわけではありません」として宗教団体側に何らかの瑕疵がない限り原則的には返還の義務はないと述べた「意見書」を本件において最高裁宛に提出している。

幸福の科学の御布施についての教義

幸福の科学の基本教義においても、上記の御布施の本質を踏まえた教義が存在している。すなわち、幸福の科学への御布施に際して説法やセミナー又は読経行為などが行われたとしても、それは一つの機縁に過ぎず、御布施の対価ではないとされているのである。

例えば、幸福の科学の基本経典の一つであり、1995年に刊行された『仏陀の証明』において、『仏説・正心法語』に収められている経文「目覚めの言葉『次第説法』」について、以下のとおり説かれている。

「説法や活動の対価として、金銭的なものや物質的なものを受けるのではないのです。これを間違わないでいただきたいと思います。たとえ現在、当会の講演会やセミナー等に入場料その他があるとしても、それは対価ではないということを知らなければいけません。これは、現代の経済原理に基づいて行なってはいますが、そうした行事に参加する人は、あくまでも寄進の心、喜捨の心でもって差し出さなければいけないものなのです。」

また、2000年に刊行された『霊的生活と信仰生活 信仰とご本尊について』においても、以下のとおり説かれている。

「幸福の科学が信者のみなさんからお布施を受けるときも、それは商品の対価、何かの労働の対価ではありません。・・・たとえ、お経を読む、説法をするなどという行為がそこにあったとしても、それは一つの機縁、よすがであって、その対価として、お布施、植福をするわけではありません。お布施は対価性がないものであり、だからこそ値打ちがあり、功徳があるのです。」

判決で認められた御布施の適法性と不適切な女性関係の不存在

あわせて確認されるべきことは、地裁・高裁判決は御布施の適法性を認め、元信者らの納骨壇・永代供養以外の御布施返還の請求をすべて棄却しており、判決で返金が認められたのは全体のごく一部にすぎないという事実である。

原告である元信者らは、「布施をしないと信仰心が足りないなどとして迫害されたりし、また、災いや不幸が起きるなどと不安感を増大させられ、極度に困惑させられたりしたことにより精神的に追い込まれ、無理矢理に多額の金銭を」御布施させられた旨などの主張を行った。

これに対し、東京地裁は、元信者らが「信仰心に訴えかける御布施の勧誘に自らの判断で応じていた」と判断し、東京高裁は、元信者が「信仰心から自己の自発的な意思により御布施」をしたものであり、幸福の科学の教義の内容や映画の内容は「信仰心を鼓舞するものであっても社会通念上相当と認められる範囲を逸脱した違法なものであるとは認められない」と判断しており、いずれも幸福の科学の御布施の適法性を認めた。

つまり、脅しや恐怖によって御布施されられたという元信者らの主張を判決は完全に否定し、幸福の科学の御布施は、いわゆる“霊感商法”などとはまったく異なるものであることを、判決は明確に認めたのである。

また、裁判の中で元信者らは、幸福の科学の元職員種村修氏の陳述書を提出するなどしてあたかも違法な女性関係があるかのように主張したが、同陳述書については、別の訴訟において東京地裁で「信用性は認め難い」として200万円の損害賠償が認められている。また、この別の訴訟では、東京高裁で種村氏の述べる架空の女性問題を取り上げた週刊文春誌の記事について400万円の損害賠償と同誌の1頁全面を使用した歴史的に見ても稀な巨大謝罪広告の掲載が命じられ、週刊文春誌上(2015年2月12日号)に同謝罪広告が掲載された。

さらに、前夫人に関しても、東京家裁で女性問題を理由とする慰謝料請求を本人自ら取り下げており、同氏自身が不適切な女性関係など一切存在していないことを事実上認めたのである。

これらの事実から明らかなとおり元信者らの主張は、その動機の正当性について完全に覆されている。

東京高裁判決及び最高裁決定の問題点

幸福の科学の熱心な信者らは、先に述べた幸福の科学の基本教義を熟知したうえで、自ら進んで信仰行為、かつ修行行為として、納骨壇及び永代供養を機縁とした御布施を仏に捧げているというのが真実の姿である。

納骨壇、永代供養に伴う御布施を考えるにあたっては、納骨壇及び永代供養を機縁とした御布施が幸福の科学の教義を熟知した熱心な信者らにより信仰行為、すなわち無私無償の真心に基づく慈しみの修行行為として行われたことを無視してはならない。すなわち、宗教行為としての御布施は、当該宗教団体の本尊を信仰する信者が当該宗教団体の教義に則って修行行為として行うものであり、宗教団体側に反社会的行為、違法行為など法律行為の瑕疵を生じさせた事情のない限り、性質上宗教団体の信仰行為の特殊性を考慮に入れることができない一般市民法により規律されるべきものではない。

したがって、これらの行為を納骨壇の利用や永代供養の読経行為などの外形的行為と対応する有償契約と捉えること自体、当事者の真意及び当該行為に込められた修行行為としての価値や宗教的価値を顧みないものであり、その本質を見誤るものである。

しかしながら、最高裁は、幸福の科学側に法律行為の瑕疵を生じさせたといえる事情がまったく認定されていないにも拘らず一方的に御布施の返還を命じる東京高裁判決を追認しており、これは、見返りを求めずに行われるからこそ尊い御布施の信仰行為としての価値を看過するものであると同時に、法律行為の基礎とされるべき当事者の意思にも正面から反するものである。

また、地裁・高裁判決は、先祖の魂の救済の縁となるべき納骨壇について、幸福の科学が遺骨を管理するある種の“倉庫業的な事務”であるかのように捉え、先祖に供養の光を届ける永代供養については、幸福の科学の職員が経文を読み上げる一種の“作業的な行為”であるかのように捉えているとすらいえる。

これは、人間の魂の救済という本来であれば最も重要な公益事業に従事する宗教団体を単なる営利事業であるかのように捉えたものであるとともに、宗教行為の外形を表面的に捉えその無私無償の信仰行為、修行行為としての本質を見ないものである。

御布施の精神の崇高さを尊重した司法判断を

地裁・高裁判決は、御布施に関する当事者の宗教的な意思の特殊性を考慮に入れず、一般市民法秩序に引き直して当事者の意思を外形的にのみ解釈し、その本質を歪めたものといわざるをえない。

すなわち、同判決は、真摯に当事者の意思を探究するという司法判断の基本精神を放棄し、その事案の本質を誤って捉えるという致命的誤りを犯すとともに、御布施という宗教行為に対する歴史的経緯及び宗教団体内部での理解を踏まえない外形的判断を一方的に行っており、世俗の価値観では捉えきれない本質を有する信教の自由(憲法20条1項)を保障するために政教分離(憲法20条3項)を制度として保障した憲法の精神と相容れない違憲判決である。

そして、これを追認する最高裁も、本来であれば宗教団体の内部的な自治に委ねられるべき宗教行為の評価に対して国家権力が一方的に介入し、その返還を命じる東京高裁判決の危うさを看過し、世界の本質を謙虚かつ真摯に考察することなく即物的な価値観に基づき違憲な決定を行ったものと評価せざるを得ない。

有限なるものさしで無限なるものを計測することはできない。それと同様に、行為の外形のみにより人間の精神作用の深奥に関わる久遠実成なる存在への信仰行為の本質を捉えることは決してできない。司法界も、古来より人間の魂の救済に真摯に従事する宗教団体の聖なる仕事の意義に目を向け、それを支える御布施の精神の崇高さに対する敬意を払った上で、正義に適った判断を行うことが強く望まれる。

幸福の科学グループ広報局

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