27年前、愛する息子を自殺で亡くしたKさん。悲しみの淵にいたときに大川総裁が説いている「死は永遠の別れではない」という霊的人生観を知って元気を取り戻していきました。
そして、幸福の科学で息子さんの供養を行ったところ、Kさんにある神秘体験が臨んだのです―。
(Kさん/女性/ 月刊「ザ・伝道」 第223号より転載・編集)

体験談 いつかまた会おうね

突然、逝ってしまったわが子

1990年4月、春の訪れを感じる温かな昼下がりのことでした。私が台所で食事の支度をしていると、1本の電話が鳴り響きました。
「もしもし、Kさんのお宅ですか? 日光警察署の者ですが……」
「はい。Kです。はい…え……本当ですか? わかりました。すぐに行きます」

それは離れて暮らす次男のMが、日光の山中で自ら命を絶ったという知らせだったのです。まだ、24歳でした。

頭が真っ白になった私は、しどろもどろになりながら、客間にいた主人と、すでに独り立ちして家を出ていた長男に訃報を伝えました。そして、主人と一緒に日光へと向かう電車に飛び乗ったのです。

(これはきっと悪い夢よ。お願い。早く覚めて……!)
警察署で長男と合流し、冷たくなったMと対面しました。
(M、どうして? 私が近くにいたら……無理矢理でも自宅に連れて帰ってきていれば……)

日光で火葬を終えて自宅へ戻る車中、私は骨壷を抱きながら、Mと過ごした日々を思い出していました―。

受験の挫折、不登校、大学中退、そして引きこもり……

Mが生まれたのは1966年。大学講師として働く主人と私の次男として、すくすくと育っていきました。小さいころは、一人で絵を描いたり歴史マンガを読んだりすることが好きな、どちらかと言えば、おとなしい性格で、決して友達を傷つけたりしない、心優しい子でした。

そんなMの人生の歯車が少しずつ狂っていったのは、中学受験の挫折がきっかけだったように思います。
Mが受験した中学は石川県の最難関レベルの中高一貫校。
4つ上の長男が通っていたのでMも同じように受験したのですが、わずかの差で合格できませんでした。

「M、気にすることないよ。近くの公立中学も良い学校なんだから」
「うん……」
私は、肩を落とすMを励ましましたが、Mの表情は晴れません。思えば、このときからMは強い劣等感を抱き、精神的に不安定な面を見せるようになっていきました。

進学した地元の中学では、ずっと受験勉強に励んできたMのことを、同級生たちが「お前の家はみんなガリ勉」とからかったそうです。それからというもの、Mは“不真面目”を演じるようになりました。

授業以外はほとんど勉強せず、遊んで過ごしていました。それでもなんとか高校に進学できましたが、馴染めず、一学期で不登校になったのです。知り合いのツテで転校し、学力レベルを下げた私立大学にも進みました。しかし、Mは、「兄さんは国立大学に通っているのに……」と、みじめに感じたのかもしれません。入学式だけ行って中退し、引きこもるようになってしまったのです。

(この子はこの先どうなるだろうか……)
私はMの将来を案じて、不安な毎日を過ごしていました。そんなある日のことです。
「大阪で暮らしたい。ゆくゆくは東京に出る」

Mがそう切り出し、趣味だった音楽に携わる仕事がしたいと言ったのです。「地元だと昔からの知り合いに心配されるのでいられない」という気持ちから出た結論のようでした。
(何でもいい。この状況が変わるのなら……)
私も主人も、そう思ってMを応援したのです。

Mは大阪で一人暮らしをはじめました。ところがアルバイトもせず、部屋に引きこもるように……。心配になった私はMのもとに駆けつけ、しばらく同居することにしました。しかし、私たち親子に会話はほとんどなく、部屋はいつもどんより暗い雰囲気が漂っていました。

(……でも大丈夫。Mはいつかきっと元気になる)
自分にそう言い聞かせて、「私にできることをやろう」と、掃除、洗濯、食事の用意など身の回りの世話に励みました。しかし、地元に置いてきた主人のことも心配です。

(こんな毎日が、いつまで続くのだろうか……)
ふいに不安と焦燥感(しょうそうかん)が襲ってきます。
「M、お父さんも大変なようだから、もう自宅に戻ろうと思うんだけどいい?」
「嫌だ。もうしばらくいてほしい……」

Mがこう言って引き止めるので、結局、落ち着くまで約3カ月間そばにいました。Mはその後半年くらい経ってから東京に移り、ミュージシャンの警備などをやってみたようです。しかし、またすぐに辞めてしまいました。

受験に失敗し、学校にも通いたくない、音楽の仕事にもなかなか就けない―。Mは、何もかも思うようにいかない人生に次第に絶望していったのです。精神科に通うようになり、睡眠薬や精神安定剤を処方されていました。そしてあの日、思いつめて―。

「Mは“あの世”にいるの?」

天国に届けるありがとう【体験談】

Mが亡くなってしばらく経っても、「もし私が……」という後悔は、なかなか消えません。それに、Mのことを人様に言うのは、はばかられます。私も家族も明るく振る舞っていましたが、心の奥にそれぞれ悲しみを抱えこんでいました。

そんなとき、友人のGさんと久しぶりに会う機会がありました。私とGさんは家族ぐるみのつきあいがあり、GさんはそれまでのMのことも知っています。
「Kさん、最近連絡なかったけど、どうしてた? 元気?」
「実は……」
私は信頼するGさんにすべて打ち明けました。
「……。それはつらかったよね。Mくんも苦しかったんだね」

Gさんはそう言って励ましてくれました。そして、「今度、幸福の科学のセミナーがあるから、気分転換に来てみないか」と誘ってくれたのです。幸福の科学の会員だったGさんは、以前から私に大川総裁の書籍を紹介してくれていました。ずっと関心があった私は、思い切って参加することにしたのです。

数日後。セミナーに伺うと、たくさんの方が集まっていました。みなさん気さくで素敵な方ばかりで、「暗い」「不幸そう」という私の宗教に対するイメージががらりと崩れました。
「人間の本質は『魂』です。私たちは、この世とあの世を何度も生まれ変わっている存在なんですよ―」

(Mはいなくなったけど、Mの魂はあの世にいるの?)
セミナーで聞いた話は、漠然と「あの世はあるのかもしれない」
と思っていた私にとって、とても興味深いものでした。「もっと知りたい」と思い、会員になることにしたのです。

『常勝思考』

教えを学び始めると、私の心を覆っていたものが晴れていく感覚がしました。大川総裁の『 常勝思考 』を読んだときです。

幸福の科学では、『人生は一冊の問題集であり、その問題集は、各人が努力して解かねばならないものだ』と説いています

(人生は、問題集……?)
その本には、人間は魂修行のためにこの世に生まれてきていること、人生の途上で起きるさまざまな苦難困難は単なる不幸ではなく、魂の糧になるということなどが説かれていました。この「人生は一冊の問題集」という言葉で、私の人生観が変わったのです。

以来、大川先生の教えを夢中になって学ぶようになりました。そのうちに、自殺した人は死後どうなっているか知ることになったのです。
(「死んだら楽になる」と思って自殺しても、死後、天国にも地獄にも行けず迷うと説かれている……。もしかしたらMも今、苦しんでいるのかもしれない)

そして、迷っている霊を救うためには、遺された人たちが正しい信仰を学んで、幸せに生きる姿を見せることが大切だとわかりました。
(Mのためにも、落ち込んでいられないわ)

私は主人や長男にも幸福の科学を勧め、家族で教えを学ぶようになりました。また、Gさんたち幸福の科学のメンバーと一緒に、地域にも幸せを広げる活動にどんどん参加するようになったのです。自分の幸せではなく、人の幸せを考える時間が長くなったことで、私の心もどんどん前向きに、そして軽くなっていくのを感じました。

供養の光をMにも

Mがあの世に旅立って7年が経った、1997年のある日のこと。いつも通り幸福の科学の支部に行くと、支部長さんが私に話しかけてきました。
「Kさん、Kさん、幸福の科学で『永代供養(えいたいくよう)』が始まるんですよ」
「永代供養ですか?」

聞くとそれは、栃木県にある幸福の科学の 総本山・正心館 から、読経(どっきょう)による神仏の光が故人の魂に手向けられる尊い供養だそうです。私はさっそく申し込むことにしました。そして、なかなか栃木に参拝に行けない私は、自宅で幸福の科学の根本経典である『仏説・正心法語(ぶっせつしょうしんほうご)』の言葉を、あの世のMに伝えるような気持ちで読むようにしたのです。

(神仏の光がMに届き、苦しみが癒えますように)
主人もMのことがずっと気になっていたようで、永代供養してからは安心した表情で
「しっかり供養ができて良かった」と言うようになりました。

そしてこの頃から、家族の様子も変わっていったのです。もともとわが家は仲がよく、穏やかに暮らしていましたが、Mのこともあって、どこか影がありました。しかし、供養によってMだけでなく、私たち家族も神仏の光をいただけたからでしょうか。家の雰囲気が明るくなり、主人も長男も仕事にさらに打ち込んで昇進し、希望があふれてきたのです。

(供養させていただいて本当によかった。仏よ、ありがとうございます―)
永代供養の功徳を、家族で実感したのでした。

「お母さんごめん。僕は天国で頑張っているよ」

天国に届けるありがとう【体験談】

2000年8月。私も家族も元気を取り戻していました。しかし、私の心の奥の奥では、まだ「Mを救えなかった」という思いはぬぐい切れずにいたのです。街でMと同い歳くらいの人を見かけたときなど、ふとしたときにその後悔が巻き戻ってくるのでした。

(私はまだ引きずっているんだ……けじめをつけよう)
気持ちを整理したいと思い、幸福の科学の 日光精舎 で「三日懺悔(さんげ)式※」を受けることにしました。

セミの声が鳴り響く夏の日光。研修室の椅子に座り、私はMが生まれた日から順に記憶を振り返っていきました。そして、中学受験の場面―。夜遅くまで必死に勉強するMの顔と、「頑張れ、頑張れ」と応援する私たち家族の姿が浮かんできます。

(Mはまだ小学生だったのに、本当によく努力したなあ)
そのとき、ふと以前、大川総裁の法話「人を愛し、人を生かし、人を許せ」で聞いた言葉を思い出しました。

「愛していると称して、その実、心配することだけを習慣にしている人がいます(中略)
たとえば受験生を子に持つ人であれば、『子供が受験に失敗すると困る』と心配しているでしょうが、ほんとうにその子の将来を考えて、そう思っているのでしょうか。『自分がまわりに対してあまり格好がよくない』『その後の1年間、自分も余分に苦しまなければならない』などの理由で、困ると思っていることも多いのではないでしょうか」

はっとしました。

(そうなのかもしれない……。私は「Mのために」と思って一生懸命だったけど、心の奥の奥では……)
私が嫁いだK家は、代々地主を任されてきた旧家でした。主人や主人の兄弟をはじめ、親戚はみな高等な教育を受けていましたし、義母など女性たちも教養がありました。普通の農家で育った私は、知らぬ間にコンプレックスを感じていたのだと思います。

息子たちに家庭教師をつけるなど、熱心に教育してきたことも、よくよく考えてみると、「母親が優秀じゃないから子供もレベルが低いんだ」と周りに思われないか心配になる自分の心を護るためでした。

(今まで気づかなかった……)
Mは受験競争に向くようなタイプではなかったのに、一族からのプレッシャーに耐え、期待に応えようとしていたのです。Mの気持ちを考えると胸が締めつけられます。
(M、ごめんね……)

そのときです。不思議な体験が私に臨みました。
Mからのメッセージがありありと、心に浮かんできたのです。

「お母さんがあまり心配するといけないので来ました。仏がここに呼んでくれたのです。今から自分の気持ちを話しますー」

Mの霊は続けて、自分で命を絶ったことを申し訳なく思っていること、供養のおかげで今はもう天上界に還り、天使たちと一緒に自殺者を減らす活動をしていること、そして自分のことはもう心配しないで両親には世の中のために働いてほしいことを伝えてきました。

「僕はこっちの世界にきて、本当に立派な家族の一員であったのだとつくづく分かりました。お父さん、お母さん、本当にありがとう」

私は、あふれ出てくる涙を止めることができませんでした。
(Mは家族のことを恨んでないんだ……そっちで元気にやっているんだね。よかった……。私こそ、立派な息子を持つことができて誇りに思うよ。お前は私たち家族の宝だよ。本当にありがとう―)

Mの気持ちを聞いて、それまで私の人生に重くのしかかっていたものが消えました。
そして、やっと自分で自分のことが許せたのです。
(Mが言うように、私も残りの人生、世の中の役に立つ生き方を送ろう―)
なんとも言えない幸福感と希望で胸をいっぱいにして、私は日光をあとにしました。

いつかまた会える日まで

天国に届けるありがとう【体験談】

2008年、幸福の科学の霊園である「 来世幸福園 」に納骨壇をいただきました。
2014年には主人も他界し、今はMと一緒に眠っています。

今は、長男も家から出て遠くで働いているので、私一人になってしまいました。でも全然、寂しくはありません。目には見えないけれどMも主人も、天国から私のことを見守ってくれていて、心は繋がっていると実感できるからです。

人生、うまくいくときもあれば、挫折するときもあります。私も息子に先立たれたときは、「自分の人生は失敗作だ」と、何もかも悲観的になっていました。でも、何より大切なことは、どんな状況でも、そこから何かをつかみ、自分の心の糧にしていくことだと思います。

そう気づけたのは、幸福の科学に出合えたからです。この教えがあったからこそ、私はここまでくることができました。今が人生で一番幸せなのかもしれないと、感じる毎日です。

神仏に、この感謝の気持ちを少しでもお返ししたくて、幸福の科学で人助けの道に励んでいます。教えを学んで幸せになっていく方を見ると、私も本当にうれしいですし、元気になれるんです。何よりそれがMの供養になると確信しています。

M、そちらはどうですか。
相変わらず、人助けで忙しいですか?

私はいたらない母だったかもしれませんが、あなたはそれでも愛してくれましたね。
あなたと出会い、育てるなかで、私は本当愛とは何かを学びました。
あなたが私に、大切なことを教えてくれたのです。
いつかまた会える日まで、私もこっちの世界で頑張りますから、見守っていてください。

私の子供として生まれてきてくれて、本当にありがとう。


※懺悔文を書いて奉納し、神仏に許しを請う儀式。

◆この記事は、月刊「ザ・伝道」第223号(2017年9月号)に掲載された体験談をもとに編集しています

書籍で学ぶ 天国に還った人への供養のあり方

『正しい供養 まちがった供養』 (大川隆法 著/幸福の科学出版)第3章 正しい供養で故人も遺族も幸福になるより抜粋したメッセージ

「感謝」の気持ちが故人の「徳」になる

先祖供養と言っても、天国に還った人と地獄に堕ちた人とに大きく分かれます。

天国に還った場合は、「この世の修行を見事に完成して、卒業した」ということになります。死というものは、いわば、この世の卒業式であり、あの世へ行くことは入学式なのです。

したがって、本当は、死はおめでたいことであり、遺された人たちは、天国に還った人に対して、「見事に修行を終えられ、おめでとうございます」と言うべきなのです。

そして、「私たち子孫は、先祖のみなさんを誇りにしております。みなさんを手本にして、これからも努力・精進してまいりますので、どうか、私たちをご指導ください。また、みなさんのご恩や徳に報いるため、毎年、お彼岸やお盆の季節には、みなさんに感謝をさせていただきたいと思います。この気持ちを、どうか、お受け取りください」と言えばよいのです。

肉体を頂いたことをはじめ、先祖からは、いろいろな恩を受けているでしょうから、毎年、1回か2回は、きちんと感謝することが大事です。毎日する必要はありませんが、年に1、2回は、思い出して感謝してあげると、天国に還った先祖もうれしいものなのです。

子孫から「ありがとうございます」と感謝されるということは、先祖に徳があったことを意味します。あの世で、周りの友人たちから、「あなたは子孫から非常に慕われていますね。生前、ずいぶん徳があったのでしょう」と言われるので、あの世の人にとっても、やはり、うれしいのです。

また、友人や知人が亡くなった場合も、地上の人が思い出してあげると、彼らは、うれしいものなのです。反対に、誰からも供養してもらえないということは、遺族や子孫に見捨てられたか、生前、多くの人から嫌われていたことになります。

遺された人たちが進んで供養をしてくれるということは、その人に何らかの徳があったということなのです。

要するに、天国に還った人に対しては、地上の人間が救済する必要はないので、あの世での活躍を祈るとともに、「私たちに対して、ときどきはご指導ください」と祈ればよいのです。