「人はなぜ生きるのか」を伝えられる医者を目指して。【奇跡体験談】

2020.01.24
M・Tさん(65歳・千葉県・医師)
M・Tさん(65歳・千葉県・医師)

2018年、64歳にして自身のクリニックを開業したMさん。「生涯現役で世の中に貢献したい」と笑顔で語るMさんですが、これまでの人生は、実父の事故死、離婚、子どもの不登校など苦難の連続でした。Mさんの生き方を変え、運命が開かれたきっかけは、幸福の科学との出合いでした—。

「ザ・伝道」236号より転載・編集

白衣に憧れた少女時代

終戦から8年が経っていた1953年、私は、3人きょうだいの長女として岡山県で生まれました。

実家の近所には岡山大学があり、土手の上からキャンパスの中をのぞくことができました。そこには、白衣で歩く医学部生らしき青年たちの姿が見えます。その姿は幼な心にも輝いて映り、いつしか私も「将来は、白衣を着たお医者さんになりたい」と思うようになっていました。

その思いは消えることなく、私の心にずっと生き続けました。十代になり、医者の仕事について調べると、発展途上国に赴(おもむ)いて働いている医師がいることを知りました。

(医師は人を救うすばらしい仕事。私も苦しんでいる世界中の人を助けたい!)

猛勉強し、岡山大学医学部に合格。夢に向かって歩み始めました。

父の死、離婚、子供の不登校…

医学部の2年生のときのことです。自宅に一本の電話が入り、母が受けました。

「奥さん、ご主人が交通事故で—」

父が車にひかれたというのです。即死でした。父は戦時中、特攻隊の教官をしていました。終戦後は裁判所の事務官として勤めていましたが、仕事から帰宅すると、「俺は死に損なった。教え子たちに申し訳ない」と男泣きしながら、酒におぼれていました。そんな父のことを、私はずっと軽蔑(けいべつ)していたのです。

(どうしようもない親だった。それでも、やっぱりお父さんの存在は大きかったんだな)

父が生きているときに孝行できなかった自分がふがいなくなり、葬儀(そうぎ)にすら出ることができないほど、ふさぎこんでしまいました。

(人は死んだらどうなるの?)

生や死について考えるようになり、宗教書や哲学書を読み、教会にも通いました。しかし、納得いく答えは得られず、人生や社会に漠然(ばくぜん)とした不安を抱えたまま月日は流れました。

大学を卒業し、小児科医として働いていた25歳のとき、同じく医師として働く男性と結婚して3人の子どもにも恵まれました。

ずっと家庭円満でこの幸せが続くと願っていました。しかし、厳しい現実が待ち受けていました。子どもたちが3人とも、学校に行けなくなったのです。原因はそれぞれ違いましたが、母である私は、自分の力不足を責めました。

(夫婦共働きで、子どもたちにさみしい思いをさせているからかな……)

私は、今度は「アドラー心理学」に救いを求めました。心理学をもとに子どもを勇気づけると一定の効果があり、子どもたちは明るい表情を見せるようになりました。ところが今度は、子育てに対する考えの違いから夫との溝が深まっていったのです。

(どうして私の人生は苦労ばかり……)

結局、結婚して17年が過ぎたころ、離婚が決まり、私はシングルマザーになりました。医師として勤めて生計をたて、3人の子どもを育てたのです。

ずっと探していた問いへの答え

子どもたちも成長し、私も47歳になっていたときのことです。自己啓発セミナーの学習会で知り合った方の縁で、幸福の科学の支部に行くことになりました。私は、伝統的な仏教を重んじる家庭で育ったので、新興宗教に対しては不信感がありました。ですが、その方が「幸福の科学の支部はとても癒される場所だからぜひ来てほしい」というので、しぶしぶ行ってみることにしたのです。

支部の中はとても明るい雰囲気でした。会員の皆さんも優しくて「いい人たち」だったので安心しました。

(この宗教、悪くないかもしれない…)

礼拝室に入り、本尊の前に立って手を合わせました。するとそのとき、自分の意思とは関係なく、突然、涙が溢(あふ)れてきたのです。同時に「ずっとここに来たかったんだ」というなんとも言えない不思議な気持ちが湧いてきました。

心の"表面"では、拒絶していましたが、奥深いところでは、仏の教えを求めていたのだと思います。

幸福の科学の会員になることを決めた私は、さっそく大川総裁の『限りなく優しくあれ』 などの書籍を読むようになりました。

大川総裁は、人はこの世とあの世を何度も転生輪廻(てんしょうりんね)しながら魂を成長させていること、あらゆる苦しみは自分を磨く砥石(といし)なのだということなど、「人生の意味は何か」を説いていました。父を亡くしたあの日から探していた「答え」を、やっとみつけたような気がしました。

また、大川総裁は、怒りや恨みなどマイナスの思いに心が支配されると身体も病んでいくことや、心が明るく変われば病も癒(いや)されていくことなど、医療者の指針になる教えも数多く説かれていたので、とても感激しました。

(もっともっと、心の教えが知りたい!)

さらに学びたくなった私は、今までの人生を振り返る「生涯反省」に取り組むため、幸福の科学の「シニア・プラン21(※1)」にも参加することにしました。

反省修行のなかで幼少期のこと、父の死、結婚、子育て…と人生を順々に思い出し、今まで経験してきた人間関係の葛藤(かっとう)や挫折体験を改めて見つめ直していきました。

すると、何かと「男なんかに負けたくない」と張り合ってしまう自分の心を発見したのです。そしてさらに、この男性に対するライバル心は、もとをたどっていくと、亡くなった父に対して抱いていた不信感が起因(きいん)していることに気づいたのです。なんとなく自分の"心の傷"は「父親との葛藤」であることは感じていました。でも、その傷を癒し、克服することはできずにいたのです。

(お父さんは戦争が終わってから、生きる道を見失ってつらかったんだろうな。私が子どもだったとき、軽蔑してしまって申し訳なかった…)

改めて天国にいる父を幸福の科学式で供養し、感謝の思いを手向けることにしました。

それからというもの、少しずつですが、私の心は軽くやわらかくなっていきました。男性に対する不信も消え、幸福の科学の活動で知り合った方と再婚することもできました。

※1:生涯反省を通して、生涯現役での活躍を目指す幸福の科学の仏法真理道場です。

「第二の人生」の扉が開いて

そして2007年、転機が訪れました。総本山・正心館で『経営公案スペシャル編』(P・F・ドラッカー守護霊霊示)研修に参加したときのことです。この研修では、どのような人生を送り、世の中の役に立っていくかを考える時間がありました。心をしずめて、自分のこれからの人生について思いをはせます。するとそのとき、「自分のクリニックを開業したい」という思いが降ってきたのです。

(私は、心と身体のどちらも癒せる医者になりたい。自分の本当にやりたい医療を実践するためには、やっぱり病院をつくりたい)

この研修で揺るがない自分の「本心」を掴(つか)み、決心したのです。当時、私は54歳。決して若いとは言えませんでした。ですが、「シニア・プラン21」で「生涯現役で社会に貢献すること」の大切さを学んでいた私にとって、年齢は気になりませんでした。「何歳からでも人生は変えていける」と心から信じていたのです。

総本山・正心館から下山した次の日、さっそく運命は動いていきました。それまでは勤務医として働いていたものの、アルバイトのような軽い気持ちでしたし、自分の技術にも知識にも自信がありませんでした。「できることならもう一度、医学の勉強をやり直したい」と思っていたところ、研修を受けながら働くことができるという病院から、「うちにこないか」と声がかかったのです。その病院で数年間、20代の若い医師たちに混ざって勉強しながら働きました。

(開業するなら、医療知識だけじゃなくって、経営の勉強もしたいな)

そう思っていたところ、知人から「代理の院長を探している」という千葉県内のクリニックを紹介され、引き受けることにしたのです。毎日が試行錯誤でしたが、婦長や理事長を始めとする、皆様のおかげで病院を回すことができるようになりました。

大川総裁が説く経営論も学びながら、どうしたら患者さんに喜んでもらえるかを考え、実践する日々はとても充実していました。

その病院で5年ほど院長としての修行をさせてもらったあと、次の院長にバトンを渡し、私はいよいよ独立の準備に入りました。千葉県の長生村に住む知り合いから、「この村に病院が足りない」という話を聞いていたので、長生村に病院をひらいて、地域の方々の健康を守ろうと決めました。

そして2018年、念願叶って「もといハッピークリニック」を開業しました。私は64歳になっていました。

私の診察は、病状だけではなく、できるだけお一人おひとりの話を聞いて、心のケアも行っています。先日は、足の親指を痛めたという若い女性が診察に来られました。その方の様子が少し気になったので、話しかけてみました。

「親指、痛いですよね。ところで、ご家族は皆さんお元気ですか?」

心理学では、「親指」は「親」を象徴すると聞いていました。もしかしたら、この方もご両親に対する葛藤があるのではと直感したのです。そのことを話すと、彼女は、ぽつりぽつりと、母親との関係で悩んでいることを打ち明けてくれました。

「苦しいですね。でも、勇気を出してお母様に心のなかで『ありがとう』って伝えてみてくださいね。この親指にも感謝してみてください。そしたら早く治るかもしれませんよ」

「わかりました! やってみます!」

その女性が当院を出るときには、表情が明るくすっきりとしていました。

光が降り注ぎ、いるだけで明るい気持ちになれる待合室。
光が降り注ぎ、いるだけで明るい気持ちになれる待合室。
まるで家族のような、もといハッピークリニックの皆さんと。左端に写っているのは、病院の事務長としてMさんをサポートしている夫のRさん。
まるで家族のような、もといハッピークリニックの皆さんと。左端に写っているのは、病院の事務長としてMさんをサポートしている夫のRさん。

65歳の大学生

開業に先立って、私は2017年から幸福の科学の「ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ(HSU)」に通い始めました。HSUは、クリニックがある千葉県長生村に位置する高等宗教研究機関です。私ももう一度、勉強したいという思いがあったので、HSUの未来産業学部の、短期特進研究課程の学生として入学したのです。クリニックを開業した今も、休診日に登校し、授業や「プラズマ」の研究・実験に参加しています。

「プラズマ」は、空気清浄機などの家電でその名が知られていますが、実は最先端の科学技術として、医療への応用が世界的に期待されています。

私は自分のクリニックで消毒液の代わりにプラズマを使うなどして、臨床研究に取り組んでいるのです。20代の学生に混ざって学問を修めることはとても良い刺激になっています。また、合唱のサークルにも入っているので、30歳以上、年下の方々と歌って友情を深めています。そのおかげでしょうか。なんだか、日々元気になって若返っている気がします。

「人生とは何か」に答えられる医者になりたい

私が医師を目指して学んでいた20代の頃、父の死に直面して「人間はなぜ生きるのか」という疑問を自問自答してきました。

人間の本質は魂であり、肉体は魂の乗り物。そして、肉体は死んでも魂は永遠—。この真理を知ってから、私は人生観が180度変わりました。「人生に何一つ無駄はなく、すべてが学びの材料になる」と心から思えるようになったのです。すると、それまでに経験してきた、父の死や子育ての葛藤などの苦しみもすべて、かけがえのない宝物に思えるようになりました。

医師は、常に生死に向き合う職業です。重い病を患い、余命わずかになった方に医師がかける言葉ひとつでその方の心境や病状にも影響を与えます。私は、医師こそ、この「真実の人生観」を学ぶ必要があると感じています。そうでなければ、「本当の終末医療」はできないと思うのです。

欧米の医学界では、すでに「祈りの力」や「心と病気の関係」など、スピリチュアルな事柄が研究されています。人体は小宇宙と言われているように、とても神秘的なもの。まだ解明できない謎だらけですから、現在の医学の"常識"にとらわれていると、本当に大切なことを見落としてしまうのではないかと感じます。日本の医学界も、霊性に目を向けていってほしいと願います。

私は、もう65歳。でも、気持ちはまだ20歳。今は「人生百年時代」と言われる世の中ですから、これからが本番です。この命が燃え尽きるまで、世の中に貢献していきたいですし、できるならずっと医師としてがんばりたいです。

HSUのカフェテリアで教員や学生とランチをするMさん。若い友達がたくさんいる。
HSUのカフェテリアで教員や学生とランチをするMさん。若い友達がたくさんいる。
毎週、東京正心館(東京都港区)で幸福の科学の合唱団アンサンブル・カンティアーモの練習に参加している。歌うことも元気の秘訣。
毎週、東京正心館(東京都港区)で幸福の科学の合唱団アンサンブル・カンティアーモの練習に参加している。歌うことも元気の秘訣。

Mさんが通うハッピー・サイエンス・ユニバーシティ(HSU)

HSU長生キャンパス。
HSU長生キャンパス。
若い学生に混ざって、プラズマの研究に取り組むMさん。
若い学生に混ざって、プラズマの研究に取り組むMさん。

「現代の松下村塾」として2015年4月に開学した「日本発の本格私学」(創立者・大川隆法)。「人間幸福学部」「経営成功学部」「未来産業学部」「未来創造学部」と、大学院修士課程に相当する「アドバンストコース未来産業研究科」の4学部1研究科からなる。千葉県長生村と東京都江東区にキャンパスがある。