映画『二十歳に還りたい。』セリフから読み解く大川隆法総裁の教え

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2023年9月29日に公開された映画『二十歳に還りたい。』 は、人生をやり直していく中で、「人生の意味」や「愛とは何か」という根源的な問いを情感豊かに描いた"映像詩"です。(現在、全国でロングラン上映中)

作中では、第二の人生を歩み始めた主人公に送られた、【人を愛し、人を生かし、人を許せ】という神様からのメッセージなど、印象に残るセリフがいくつもあります。

本記事では、映画のセリフから大川隆法総裁の教えをひもとき、抜粋でご紹介いたします。

「人を愛し、人を生かし、人を許せ」

映画の中で神様が、第二の人生を歩み始めた主人公・寺沢一徳に送ったこの言葉は、大川隆法総裁が説かれる「愛の発展段階説」の萌芽(ほうが)となる思想です。

愛には「愛する愛」や「生かす愛」「許す愛」などの発展段階があります。

(1)愛する愛

まず、愛の第一段階には、「愛する愛」があると思われる。
「愛する愛」は平等心より出たる愛であり、共に生くる者への愛であり、同時代人に対する思いやりである。
一般に「人を愛せ」といわれる時の愛が、この「愛する愛」である。
「愛する愛」とは与える愛であり、与え続ける愛であり、無償の愛のことである。
(中略)
愛が自分に対してではなく他人に対するものであると知ること、これが第一段階たる「愛する愛」の段階である。

(経典『原説・『愛の発展段階説』』より)

(2)生かす愛

人を生かしうる人は優れたる人である。
自らの才能と努力とによって、 人を導きうるまでに自己を高めえてはじめて、 人間は他を「生かす愛」を発揮しうる。
この意味で、「生かす愛」は「愛する愛」より一段と進んだ境地にあるといえよう。
この「生かす愛」は導く者の愛、 指導する立場にある者の愛であり、 その力と、影響力と人間洞察の深さにおいて、 私人が生きていく途上で経験する「愛する愛」を凌駕している。
(中略)
「生かす愛」を実践している人たちは、優れた政治家であったり、名経営者であったり、 群を抜く芸術家であったり、オピニオン・リーダー的学者であったりするが、 どの人も社会の進化のために貢献しているという点において共通している。

(経典『原説・『愛の発展段階説』』より)

(3)許す愛

人を許すということは、才能を超えた徳力なり雅量なりがなければ、私たち凡人にはなしがたいことではないだろうか。
ああ、「許す愛」を持ちし人は幸いなるかな。
人を許す大きな器を持ちし人は、人の世の宝である。
この「許す愛」は、主として、哲学者や、宗教家、教育事業家などの中で見うけられるものである。
我を知り、人を知り、世界の秘密を知った人は、他人に対して寛容にならざるをえない。
欠点多き人々も、この「許す愛」の玉座に登った人からみれば、大人が子供の過ちを見るように、許しという力で包んでしまうことが出来るのである。

(経典『原説・『愛の発展段階説』』より)

「愛し、生かし、許せ」の先にあるもの――存在の愛

「愛す」「生かす」「許す」という行為は、愛の発現形態の種差であり、愛そのものではないのである。
愛は行為ではなくて、内在であり、実在であり、存在である。
(中略)
「存在の愛」の極点は、やはり聖者や偉人たちなのだ。
その人がその時代に生きていたということ自体が私たちへの愛となる。
その人の存在自体が愛であるような存在。
存在が愛であり、愛そのものが存在しているかのような人たち。
人をして聖なるものの臨在を感じせしめる力を帯びた人たち。
(中略)
かくして愛は、「愛する愛」から「生かす愛」「許す愛」という行為の愛を通過して、最後には「存在の愛」に到達する。

(経典『原説・『愛の発展段階説』』より)

「どう生きるのも自由。面白おかしい人生を求めてもよい」

一徳に「第二の人生」を与えたことを告げた時の神様の言葉の一部。

私たち人間は、神様に許されて、この世に魂修行のため生まれてきます。

しかし、現代では真理に気づかず唯物的に生きている人が多いのではないでしょうか。

大川隆法総裁は、著書『「呪い返し」の戦い方』 で「『どうせ三万日ぐらいで死んでしまうのだから、その間、できるだけ面白おかしく、人にうらやまれるようなことをやりまくり、そして死ねたら、本望だ』という人もいるだろうと思う」と語られ、そういう人生観では、「霊的な側面や、『人の思いをどう感じるか』の側面については、視点が欠落していることが多い」と指摘されています。

では、人間を生かしている神様の真意はどういうところにあるのでしょうか。
人間に100%の自由を与え、この世での人生修行を許されている神の御心について、大川隆法総裁は次のように説かれています。

肉体に宿れば、いかなる高級なる魂であっても盲目になります。
(中略)
間違いもするでしょう、手探りですから。
分からないのですから、それはあるでしょう。
しかし、そうした事実は事実として、起きることは見通した上で、しかも、神は「自由」を与えられた。
その自由を与えられた代償として、私たちはその「自由の責任」を問われなければならない。
「自由の責任」とはいったい何であるか。
「間違いを犯したならば、自らの心を悔い改める」ということです。
「反省する」ということです。
(中略)
「あなたがたには自由を与える。自由に生きなさい。ただ、真理に反した生き方をしたならば、自らを悔い改める勇気を忘れてはならない。自らを振り返り、自らの人生の軌道修正をしようとする、その心だけは忘れてはならない」と言っているのです。
他の人々を傷つけることもあるでしょう。
しかし、よく反省をしなさい。
間違ったことをしたら、お詫びをしなさい。
失敗しても、それを取り返すことが許されているのだから、その許されている方法を行じないのは、その人の罪であるのです。
だから、みなさん、そのような慈悲の存在とも言える、「反省」という方法が与えられていることを忘れてはなりません。

「君なら、『ハムレット』でも『マクベス』でも、いやいや、『リア王』だってできるよ。若いのに、かなりの洞察力があるとみた」

一徳の第二の人生が動き出すきっかけとなった「演劇との出合い」のシーンで、演出家である明香の父・心太郎が言った言葉。

心太郎のセリフに登場するのは「シェークスピアの四大悲劇」として有名な作品群です。

心太郎は一徳の発するセリフを聴き、「彼の洞察力は、人生の真理を描き出した重厚な作品を演じるに足る」と感じ取ったのではないでしょうか。

大川隆法総裁は、著書『永遠の法』でシェークスピアについて次のように語っています。

シェークスピアという芸術家はさまざまな悲劇を書きましたが、彼が悲劇をつづったのは、悲劇の底にある光を人々に示さんとしたからです。
「悲劇の底をぶち割ったとき、そこには人間性の真実があり、その真実の奧には、内なる光が潜んでいる」ということを、彼は世の人々に示さんとしたのです。
すなわち、喜劇、楽しい劇ばかりが、人間の進歩を促すものではないということです。
世の中において悲劇といわれているような現象であっても、ある意味では、それが光に近づいていくための近道だということもあるのです。

(経典『永遠の法』より)

また、『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(1)幸福の科学とは何か』 では、「真理を知って、シェークスピアの戯曲を読んでいると、いろいろなことが分かる」「異次元の世界との交流ということの意味を、その法則性を彼は知っていた」とも語られています。

大川隆法総裁の説く真理を学び、「この世にあって、この世ならざる視点」を得てから、文学や音楽などの芸術作品に触れると、そこにちりばめられた真理の光を発見し、新たな感動を味わうことができます。

映画『二十歳に還りたい。』 も、文学的な深みが味わえる点が魅力の一つですので、さまざまな視点から、本作に込められた真理のきらめきを発見してみてください。

「成功とその影――シャドウにずいぶんと苦しみましたから」

一徳が初めて演技をした後、心太郎に言ったセリフ。

寺沢のような一代で大企業をつくったような成功者であっても、家族問題は思うようにいかなかったという「影」の部分がありました。

こうした「人生の成功とその影」について、大川隆法総裁は、以下のように話されています。

この世的に重荷になっていたり、一部、失敗に見えたりするようなことが、実は、人生を中道に入らせるための"重石"になっているところもあるのです。

(中略)

表でそれだけ活躍できる陰には必ず、その裏に、いわゆるシャドー(影)、成功の代償というものが、必ずついて回っています。

何かに犠牲が出ているはずなのです。

その犠牲の部分については、だいたい、しゃべらないで隠しているものです。

(中略)

この世的な意味では、「そうした喜怒哀楽を全部経験することが、人生の豊かさにも関するのだ」と思ったほうがいいでしょう。


2010年9月5日「質疑応答」より
(月刊「ザ・リバティ」2011年5月号より抜粋)

一徳は世間から成功者として認識されていましたが、人知れず家族との葛藤を抱えていました。

ただ、この経験は、単なる苦しみではなく、寺沢が第二の人生で俳優の道を歩む大きなきっかけともなりました。

「実業界で成功を達成しても、何か空しい感じがしています…」

心太郎との会話の中で、第一の人生を振り返った一徳が言ったセリフ。

一徳のように、懸命に努力して社会的な成功を収めても、心が満たされない方は多いのではないでしょうか。

誰しも目標に向かって突き進んでいく時は、気力も充実し、頑張れるものです。

しかし、いざ目標を達成した後、何とも言えない空虚さに襲われたことがあるという方も、いらっしゃるかもしれません。

はたして、この虚しさを克服することはできるのでしょうか。

大川隆法総裁は多くの著書で、成功論や発展・繁栄の法を説いています。

そこでは、この世的な名誉や金銭的な成功だけを追い求めることの虚しさを超えて、霊的人生観に立脚した、愛や永遠性を含む成功を求める重要性が語られています。

どのような仕事をしてきたとしても、どのように自分づくりをしてきたとしても、どのように人間関係をはぐくんできたとしても、「永遠」というものを感じる瞬間がなければ、その人の思いは、浅いところにとどまっていると言わざるをえません。
(中略)
人間は、はるかなる無限の彼方から来って、はるかなる無限の彼方へと去っていく存在です。
そういう永遠の世界のなかに生きていながら、有限の地上世界で生命を全うせんとしている人間―。
そこに、何らかの悲しさを伴い、何らかの虚しさを伴うのは常でしょう。
(中略)
永遠を感じること、どこまでも永遠というものに迫ってみようとすることは、やはり、人間の成功にとって、とても大事なことであるのです。
なぜなら、それは、人知を離れた世界であり、人間の手を離れた世界であるがゆえに、無限の値打ちを持っているからです。
そして、決して他のものに換算することのできない価値を含んでいるからです。

(経典『成功の法』より)

成功を達成した後に虚しさが襲ってくる時は、ある意味で、人生を深く見つめ直し、目に見えないものや心の価値に目覚めるチャンスなのかもしれません。

この世という有限の世界に生きながら、永遠という無限の価値を追い求める――人間が真の成功を追い求めるところには、一度の人生だけでは到達しえない永遠の発展・繁栄を願っている神様の愛が垣間見えるようにも思えます。

「人生をやり直したとしても、しょせん同じ人間……同じ苦労をし、同じ失敗をし、同じ苦しみと後悔を味わうんじゃないか」

明香の祖父が「もし今、二十歳に戻れたらどうする?」と問われた時の答えとなるセリフ。

この言葉は、人生を長く生きてきた方であれば、ある意味で共感される部分もあるのではないでしょうか。

ただ、大川隆法総裁は多くの著書で「自分の心を変えれば、人生を変えられる」と説かれています。

人間は、何度、反省しても、過去と同じ失敗のパターンをくり返してしまいがちです。
それが人間の悲しいところです。
そして、年を取るにつれ、そのパターンがしだいに変わらなくなってきて、魂の傾向性が固まった状態になります。
(中略)
年を取ると、自分の考え方や行動の仕方がだんだん変えられなくなり、固まってしまうのです。
したがって、「人生を変えたい」と思うならば、積極的に努力して、自分と違う考え方や行動のパターンを身に着ける必要があります。
そのようにして、自分自身を変えていくことは可能なのです。

(経典『奇跡の法』より)

一徳は、神様の言葉を指針として、自らの運命を切り開き、これまでとは異なる人生を手に入れました。

大川隆法総裁の著書には、自らの心を変え、運命を逆転させるための指針が様々なかたちで説かれています。

「お母さんも優美さんも、生活費とか着るものとか食べるものには何不自由しなかっただろうけど…お父さんから、一番欲しいものはもらえなかったんだよ」

親の心配と子供の気持ちがかみ合わず、互いに苦しみを生んでしまう回想シーンで一徳の娘・恵が放った一言。

家族という関係であっても「愛すること」の難しさを痛感します。

大川隆法総裁『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』 で、「人を愛する」とはどういうことかを問いかけています。

「毎日の生活のなかで、人を愛するとはどういうことか」と問いかけられたとき、みなさんがすぐに思いつくのは何でしょうか。
(中略)
「与える愛だ」と思いつつ、相手を縛ってはいませんでしたか。
愛という名の言葉で、相手の行動や思いに枠をかけていただけではありませんか。
(中略)
子供に対する親の愛も同じです。
愛していると称して、その実、心配することだけを習慣にしている人がいます。
(中略)
「もっと純粋に相手のことを考えて、愛を発揮したことがあるだろうか」と考えていくと、「愛を与える」という、幸福の科学の原点となる考え方であっても、きわめて難しいことが分かると思います。
実際、それは難しいことなのです。
そう簡単なことではありません。
それではどうすればよいのかというと、「知る」ということが出発点になります。
「愛を与えることは一つの修行目標であり、愛の思いを発することで、人生は変わりはじめる」ということを知るのが出発点なのです。

「愛を与える」ことは簡単ではありませんが、だからこそ奥深く、幸福で、心を豊かに成長させるものでもあるのではないでしょうか。

「…今日も、いい一日でしたね」

物語の終盤、明香が美しい夕日に照らされながらつぶやく何気ない一言です。

この時の彼女の心境や直前に交わされていた一徳との会話を考えると、しみじみと胸に迫ってくる言葉でもあります。

わたしたちにとって、今日が「よい一日だった」と思えるのはどんな時でしょうか。

大川隆法総裁の言葉から、思いを馳せてみていただければ幸いです。

「愛の種子が根づいたという証拠は、他人の反応のなかにあるのではない。みなさん自身のなかに、その反応はなければならない」というようなことが書いてあります。
(中略) 
愛を実践しているうちに、与えれば与えるほどに幸福感が強くなり、うれしくなってきて、「ああ、今日もいい一日だったな。今年もいい一年だったな」と、自分のなかから、内から、自然に喜びが込みあげてくるようであれば、本物なのです。
ところが、「今日はあの人に親切を一つしてあげた。だから、お礼を言われた」というように、一つひとつ確認しないと分からないようでは、まだまだ本物ではありません。
これは悟りにも似たことであり、少し難しいのですが、「結果が出たかどうかを相手のなかに確認して喜びが生じる」というのではなくて、「ほんとうに神の心に適った行動をしていると、うれしい感じ、幸福な感じが、自然に自分のなかから出てくる」ということを言っているわけです。

(経典『「信仰と愛」講義』より)

明香の心は失恋で傷ついていましたが、その悲しみを隠し、笑顔で一徳と接していました。

一徳の洞察力により、彼女の胸の内は気づかれていましたが、明香の優しさや思いやりは、天涯孤独の一徳にとって、心の癒やしとなっていました。

映画『二十歳に還りたい。』2023年9月29日公開

「もしも青春をやり直せたなら」

人生を振り返ったとき、誰もが一度は胸に抱く願いを一篇の映像詩とした映画『二十歳に還りたい。』

本作では、孤独な日々を送る80歳の男性が突然、20歳の青年に戻り、今度こそ悔いのない一生を送ろうと「第二の人生」を歩みはじめます。

夢のような日々のなかで自問する主人公の姿は、見る人の心にも"人生の意味"や"愛"についてを問いかけます。

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