大川隆法総裁
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大川隆法
幸福の科学グループ創始者 兼 総裁。
1956(昭和31)年7月7日、徳島県に生まれる。東京大学法学部卒業後、大手総合商社に入社し、ニューヨーク本社に勤務するかたわら、ニューヨーク市立大学大学院で国際金融論を学ぶ。81年、大悟し、人類救済の大いなる使命を持つ「エル・カンターレ 」であることを自覚する。
86年、「幸福の科学」を設立。信者は世界174カ国以上に広がっており、全国・全世界に精舎・支部精舎等を700カ所以上、布教所を約1万カ所展開している。
説法回数は3500回を超え(うち英語説法150回以上)、また著作は42言語に翻訳され、発刊点数は全世界で3200書を超える(うち公開霊言シリーズは600書以上)。『太陽の法』『地獄の法』 をはじめとする著作の多くはベストセラー、ミリオンセラーとなっている。また、28作の劇場用映画の製作総指揮・原作・企画 のほか、映画の主題歌・挿入歌等、450曲を超える作詞・作曲を手掛けている 。
ハッピー・サイエンス・ユニバーシティと学校法人 幸福の科学学園(中学校・高等学校)の創立者、幸福実現党創立者兼総裁、HS政経塾創立者兼名誉塾長、幸福の科学出版(株)創立者、ニュースター・プロダクション(株)会長、ARI Production(株)会長でもある。
法話、霊言、国内外での講演など、3,500回を超える説法
大川隆法総裁は、立宗以来、3,500回を超える説法を日本・世界各地で行ってきました。その内容は、宗教、政治、経済、国際関係、教育、科学、医療、芸能など多岐に渡り、多くの人々の幸福への指針となっています。
大川隆法総裁 幸福の科学設立までのヒストリー
大川隆法総裁は、小学校2年生のときに担任の先生から「20歳の知能(IQ200以上)である」と言われるほどの天賦の才に恵まれながらも、おごることなく地道な精進の姿勢を貫く大変な努力家でした。現在でも、その偉大な霊能力のみに頼ることなく、自助努力の精神を大切にし、その精進の姿で数多くの人々を導いています。
幼少時~青春期 精進を重ねる日々
大学時代 霊的覚醒が始まる
大悟の瞬間 大いなる使命に目覚める
瞑想的な日々のなかで、至福の感覚を何度も体験した大川隆法総裁に、ついに大悟の瞬間が訪れます。1981年3月23日、午後2時過ぎ、「イイシラセ、イイシラセ」と、福音を告げる自動書記が始まりました。大川隆法総裁が、霊界と同通し、悟りを開いた瞬間です。さらに同年7月には、自らがエル・カンターレ という存在であり、 全人類を幸福へ導く使命を持っていることを自覚します。24歳のときのことでした。その後、大手総合商社に入社し6年間の社会経験を積むなど、来たるべき日に向け、雌伏(しふく)の時を送ることになったのです。
社会人時代 初の霊言書籍を刊行
退社独立 すべてを捨てて空手にして立つ
1986年6月17・18日に、大川隆法総裁のもとに、神々が次々とあらわれ、救世主として世に立つべき時が来たことを知らせます。これまで積み上げてきた地位や名声を捨て、空手にして立つことを決意し、7月15日に商社を退社。30歳にして全人類救済のためにその身を投げ出したのです。その後、8月20日~9月8日にかけて、当会の根本経典『正心法語』 と、当会の基本法となる『太陽の法』 を、9月22日~10月にかけて、『黄金の法』 を自動書記にて記述。さらに、初の口述にて『永遠の法』 が語り下ろされます。そして、1986年10月6日、幸福の科学が設立され、同年11月23日には初めての法話・講演 が行われました。
(大川隆法公式サイトへ)
大川隆法総裁 書き下ろしによる自伝的小説「鏡川竜二シリーズ」
田舎の普通の少年「鏡川竜二」が成長していく「心の軌跡」を描いた、大川隆法総裁による書き下ろし小説です。「努力」の言葉を胸に、自分自身を成長させていく幼少期から小学生時代、心の奥底に「大志」を秘めて、青年へと脱皮していく中高時代、古都京都での日々、そして、心の内面を深め、大志に向けて思想を練っていく大学時代―。子供から大人まで読んでほしい、豊かな心を育む珠玉の小説となっています。
「竜二に実社会に出るまでの私の人生を投影してみた。」
(『小説 遥かなる異邦人』あとがき より)
宗教家の知られざる「日常」と「霊的秘密」を明らかにした 「短詩型・格はいく集」
五・七・五の定型にとらわれずにその時の思いを言い切る「格はいく」は、大講演会や新刊創作への思い、日常での出来事などが句に詠まれ、宗教家の舞台裏ともいえる事情が明かされています。
舞台裏を知る面白さは、
幸福の科学の歴史に
一つの光明を
投げかけることになろう。
(『短詩型・格はいく集(3)「神は詩う」』より)