この記事は、隔月発刊の機関誌 「ザ・伝道」 第116号より転載し、編集を加えたものです。
以前の私は、母のことを、いつも心のなかで責めていました。けれど、信仰と出会い、考え方がまったく変わってしまい、母との関係も変わりました。母と私が歩んできた道のりを、お話ししてみたいと思います。(Hさん・30代女性)
母の怒り
「さっさと、やりんさいや!」
私の実家は広島の郊外にある、大きな古い平屋で、裏手には、家族の食事用の作物をつくる田畑がありました。私は、小学校にあがる前から、いろいろと家の手伝いをさせられました。
掃除、洗たく、風呂焚き、畑から野菜をとってくること・・・。いつも、母から、たくさんの用事を言いつけられます。私には、それが苦痛でした。
「何回ゆうたら、わかるんね。ちゃんと片付けんさい、ゆうたじゃろう」
ささいなことでも、大声で怒られます。口答えや言い訳などしようものなら、もっと怒られます。私は、言い訳したい気持ちをぐっとこらえ、できるだけ早く、母に言われたように動くよう努力しました。
「言ってもわからんのんじゃったら、もう外に出ときんさい!」
ときには、夕食を抜かれたり、家の外に閉め出されることもありました。テストでいい点をとって、母の機嫌をとろうと、一生懸命、勉強しました。両親の仲も悪く、夫婦げんかはしょっちゅう。言い争う声を聞いていると、暗い気持ちになりました。
自由になりたい
小学校4年生のころのこと。よく家に遊びに行くようになった、友だちのお母さんは、とても優しい人でした。家事もお母さんがとりしきっているようです。私の家とは違う・・・ショックでした。
「もう、こんな家にいたくないな。そうだ、伯母さんの家に行こう」
私は、貯金箱から小遣いを取り出し、身の回りのものをリュックにつめました。母が出かけている間に、3歳下の妹をつれて、そっと家を出ました。妹の手を引き、記憶だけをたよりに、かなりの距離を歩き、さらに30分ほどバスに乗って、なんとか伯母の家にたどりつきました。
「どうしたん? あんたら、2人で来たん?」
私たちを見た伯母はびっくり。すぐ、私の家に電話すると、あわてた母が迎えに来ました。母は、なにも言わず、とても怖い顔をしていました。
自由になりたいなあ・・・何度もそう思いました。
憂うつな日々
中学、高校になってからも、やはり、母に振り回されていました。母の気持ちが荒れてくると、私も、父や妹も、母の怒りに巻き込まれるような感じでした。
家族はみんな、それとなく母の様子を気遣いながら、過ごしていました。私にとっては、なんとなく心の晴れない10代でした。
いつしか私は、人の言われるままに生きるようになっていました。「こうしたい」とか「こうなりたい」とか、将来の目標や理想のようなものは、私にはありませんでした。未来が明るいもののようには思えなかったのです。
高校卒業後は、担任の先生の勧めるままに、県内の短大に進みました。就職活動の時期も、自分からは何もせず、様子を見かねた先生が勧めてくれた地元の会社に、ようやく就職を決めました。
私は、会社で事務職として働きはじめました。幸い職場の人間関係はよく、私はまじめに仕事をこなしました。友だちにも恵まれ、それなりに楽しい時間を過ごしていました。
けれど、社会人となり、いろいろな人と接するなかで、私は、自分の気持ちをきちんと伝えることができないことに、しだいに苦しみを感じはじめました。心のなかでは嫌だと思っていても、断ることができません。
相手に不愉快な思いをさせたり、人間関係のトラブルが起きることが心配で、つい「はい」と言ってしまう・・・。そんな自分が嫌いでした。「私は、こんな苦しい感じのままで、ずっと生きていくんかな」と、なんとも言えない空しい感じがしていました。
親子には深い縁がある
ある日、会社の更衣室で帰る準備をしていると、先輩が、なにげなく椅子のうえに置いた本『神霊界入門』(現在『大川隆法霊言全集』第26巻、第27巻に所収。小桜姫の霊言)に目が留まりました。なんとなく、神秘的な感じのする本で、興味をひかれました。
「その本、貸してもらえますか?」
先輩にお願いして、借りて帰りました。自宅でさっそく読みはじめると、すぐに本の内容にひきこまれていきました。あの世の世界や生まれ変わりのことなど、聞いたこともないような話ばかりでした。夢中で読み進めていくと、ある一節で目が留まりました。
「親子の関係というものは非常に縁の深いものです。これは1回や2回の生まれ変わりでできたものではありません」
あの母と深い縁があるなんて、いままで考えたこともありません。考えれば考えるほど不思議な感じがして、「親子の縁」ということが、深く心に残りました。私は一晩で本を読み終わってしまいました。それが、 大川隆法先生の本 との出会いでした。
心が満たされていく
「この本、ありがとうございました。とても面白かったです。もっと読んでみたいのですが・・・」
「本屋さんに行けば、他にも売っとるよ」
先輩と相談し、互いに違う本を買って、交換して読むことにしました。そして、次つぎと新しい本を読みふけりました。
「苦悩には苦悩の意味があり、悲しみには悲しみの意味があるのです」「愛なくして幸福はありません」— 。読めば読むほど、心が軽くなっていきました。
大川隆法先生の本には、さまざまなものの見方や考え方が説かれています。私にとって苦しみとしか思えなかったことも、違う見方をすることができるのだとわかり、とても気持ちが楽になりました。
嫌いだと思っている自分自身のことも、変えてゆくことができる。自分の意志で人生も変えてゆくことができる—。そのことを知って、未来が明るく見えてきました。カラカラだった心が、真理の言葉で満たされていくようでした。
片時も大川隆法先生の書籍を離したくなくて、ちょっとした時間にも本を開きました。
先輩といっしょに、職場の他の人たちにも、幸福の科学の本を勧めました。
私は、 幸福の科学の機関誌 も読むようになりました。あるとき、「情熱からの出発」( 『悟りの極致とは何か』第2章 に所収)という講演会の内容が載っていました。
「光の力が結集しなければ、とうてい、全人類、全日本人を幸福にするだけのエネルギーには足りないのです」
私も、この教えを広めていくお手伝いがしたい。光の力となって、もっと多くの人を幸福にしていきたい—。そんな気持ちがわいてきて、私は、幸福の科学に 入会 することにしたのです。
問題集を解かにゃいけん
幸福の科学に出会う前の私は、いつも、母の顔色をうかがいながら過ごしていました。私の人生にとって、母の存在は苦しみの種。心のなかで母のことを責め、できれば逃げ出したいと思っていました。しかし、仏法真理を学ぶうちに、「このままではいけない」という思いが強くなってきました。
仏法真理によれば、人生は一冊の問題集であり、この問題集は、各人が努力して解いていかなければならないのだと言います。そして、悩みの中心こそ、人生の問題集が何であるかを教えてくれているものなのだと言うのです。
私は、いろいろな本のなかから、問題を解くヒントをさがしました。すると、「与える愛」の教えが、私の心にひびいてきました。
「愛に苦しむ人々よ、よく聞きなさい。・・・みかえりを求めることは、ほんとうの愛ではありません。ほんとうの愛とは、与える愛です」 ( 『太陽の法』第3章 )
苦しかったのは、私が、お母さんにみかえりを求めていたからかもしれないと思いました。問題集を解いていくには、きっと、愛を与えていくことが大切なんだ—。私は、母に対して、与える愛を実践していこうと決意しました。まずは、感謝の言葉を口に出すことから・・・。
それまでは、母への反発心から、「料理がおいしい」という言葉さえ、ろくに口にしたことがなかった私。ささやかな一言でも、勇気がいりました。
「今日の料理、ほんまにおいしいね」
「・・・してもらって、うれしかったよ。ありがとう」
ちょっとした折に、感謝を口に出します。しかし、頑張っているわりには、母の反応がありません。つれない態度に、「もうやめようか」と思うことも少なくありませんでした。
けれど、そのたびに、「みかえりを求めちゃいけん。私から、与えていくことが大事なんだ」と自分を励まし、努力を続けました。
母の涙
それからしばらくして、私が、いつものように読書をしていると、突然、母が部屋にやってきました。
「そんなに本ばっかり読んじゃいけん!」
そう大きな声で言うなり、すぐ出て行ってしまいました。私はあっけにとられながらも、なぜか、母の目にいっぱいたまっていた涙が、心に焼きついて離れません。母がそんなふうに泣いている姿など、見たことがありません。
「お母さん、私を気遣って、泣いとったんじゃろうか」
気がつけば、すぐ思い浮かぶ母の姿は、怒っている顔や、厳しい表情ばかり。はっとしました。
「私は、かたよった見方をしてきたんじゃないじゃろうか・・・」
子供のころの母の姿が、次つぎと思い浮かんできました。毎日の食事やお弁当づくり。母親参観のとき。運動会。家族旅行・・・。あらためて思い返すと、母にしてもらったことが、たくさんよみがえってきます。涙があふれてきました。
「こんなに愛してもらっとったのに。私が心を閉じて、お母さんの愛情を受け入れんかっただけだったんじゃね。お母さん、ごめんなさい」
あとからあとから涙があふれます。はじめて、心から素直に母に謝りました。それからは、いっそう心を込めて、母への感謝を、言葉や行動で表しました。
ゆっくりと話を聴き、母が興味を持ちそうな幸福の科学の本を勧めました。2、3日すると、母に渡した本が、食卓の私の席に置いてありました。
「これ、もう、読み終わったの?」
「ああ、読んだよ」
何冊も、そんな調子でした。私にはなにも言いませんが、母も考えるところがある様子でした。それから数カ月して、母は自ら幸福の科学に 入会 したのです。私は、ひとつ母に恩返しできたような気がして、とてもほっとしました。
母との対話のなかで
その後、私は結婚して実家を離れました。なんとなく母のことが気がかりで、しばしば電話しては、話を聴き、なぐさめたり、励ましたり。けれども、母は感情的になると、以前のように、言葉がきつくなってきます。
「仏法真理を学んどるはずなのに」と思うと、責める心が出て、心が揺れました。しかし、仏法真理では、相手を責めるのではなく、理解することが大事だと教わっています。私は、母のことをもっとよく知ろうと思いました。
子供のころのことを尋ねてみると、母は少しずつ話してくれました。母の実家は裕福な家で、祖母は厳格な人だったこと。ある日、家の戸締りをしなかったとひどく叱られ、いらない子のように言われて、とても傷ついたこと・・・。はじめて聴く話ばかりでした。
話を聴くうちに、母にとっての母親とは厳しいものだったのだとわかりました。そして、自分の叱られた経験から、「自分の子供には同じ思いをさせないように、しっかりした子に育てんといけん」と、一生懸命だったのだとわかりました。
私を叱った厳しさのなかに、母なりの愛情が込められていたのです。そのことに気づいてからは、母のきつい言葉も、徐々に心にひっかからなくなっていきました。やがて、私も娘を授かり、子育てをしていくなかで、いっそう母の気持ちを理解できるようになっていきました。
つらかったという気持ちは、もう、水に流そう・・・私の心から、わだかまりが消えていき、母と電話で話すのが楽しみになっていきました。
母の宝物
母も、幸福の科学の教えを学んで、自分を変えようと努力していました。毎日、お祈りや反省の時間をとり、自分を振り返っているようでした。
話していても、感情的にならないよう努力しているのが伝わってきます。母は少しずつ家族や周囲の人に対しても、人あたりのよい、まるい人になっていきました。
こうして、母が幸福の科学に入って、数年が過ぎたころのこと。私は、娘のSといっしょに実家に帰っていました。娘と遊んでいると、不意に、そばにいた母が言いました。
「H、大好きだよ。Hは、私の宝物だよ。ちっちゃいとき、すごい意地悪してごめんね」
とても優しい声でした。胸がいっぱいになりました。
「ありがとう・・・」
そう言うのがやっとです。母の顔を見ることもできません。母も、それ以上、なにも言わずに、静かにそばにいてくれました。私は、娘をあやしながら、母の愛を感じて、幸せな気持ちにひたっていました。このときから、いっそう深いところで、母と心が通いあえるようになりました。
私のいちばんの味方
いま、母は、私のいちばんの味方です。なんでも本音で話すことができ、ときには相談にものってくれる心強い存在です。
実家に帰れば、毎晩遅くまで、母と語りあいます。ほんとうに楽しくて、時を忘れてしまうほど。娘のSも、おばあちゃんが大好き。母も、私たちが帰ってくるのを楽しみにしているようです。
母は、幸福の科学の活動にも熱心に取り組んでいるようです。「多くの人に幸せになってもらいたい」と語る母の姿に、私は、母の愛情深さをあらためて感じます。
お母さんの娘に生まれることができて、本当によかった。しみじみとそう思います。いまでは、父と母、妹、そして子供たちも、幸福の科学の会員となりました。
互いに怒りをぶつけあって、心の休まらない家庭で暮らしていた私たち。それが、いま、こうして同じ仏のほうを向き、信じあい愛しあい、強く結びつきあっている─。あたりまえの家族の風景が、私にとっては、限りなく大切なものに思えます。
もし、幸福の科学にめぐりあうことができなければ、きっと、こんな日は来なかったに違いありません。あらためて、仏法真理の素晴らしさを実感し、仏への感謝があふれてきます。
この幸福をかみしめながら、これからも、大好きな母と、家族とともに、多くの方の幸せのために生きていきたいと思っています。