阪神淡路大震災 被災者からの勇気のメッセージ
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たとえ、すべてを失っても
阪神・淡路大震災で自宅が全壊し、奇跡的に一命を取り留めたMさんは、着の身着のままで、ボランティア活動に参加しました。そのときつかんだ信仰と心の幸福が、その後の人生を強く支え続けたといいます。被災時の体験と、その後の軌跡をお伝えします。(A.Mさん/女性/兵庫県/「ザ・伝道」第183号より転載・編集)
長年の疑問が解けた
震災の瞬間
1995年1月17日、午前5時47分。神戸の街がまだ動き出す前の未明のことでした。私は自宅の2階で、長女と布団を並べて寝ていました。
ドッカーーーーーン!
地球が真っ二つに裂けたかと思うほどの衝撃とともに、まるで奈落の底の奥深く、どこまでも落ちていくような感覚を覚えました。むせるような土のにおい、覆いかぶさる屋根。地震で家の1階部分がつぶれ、娘と私は、2階ごと、地面に叩きつけられたのです。
「布団かぶってー!」
とっさに私がそう叫んだので、娘も私も布団で顔を覆ったまま、互いの無事を確かめ合いました。自宅は、ひとつ屋根の下に、二世帯が入る構造になった木造住宅でした。隣のSさんの奥さんが、「助けてー! 助けてー!」
と叫ぶ声が、すぐ近くで聞こえています。あたりからは、「おとうちゃん! おかあちゃん!」と泣き叫ぶ子供の声や、女の人の悲鳴……。
暗闇のなかでの祈り
「 主エル・カンターレ 、どうか、私たちを、お守りください!」
私は必死で「正心法語」※を唱えました。恐怖のあまり、途中まで唱えては、次の句が分からなくなり、また最初に戻っては唱え……。それを何度も繰り返していました。ふと、真っ暗で身動きもできないなか、あたりを手探りしてみると、私の頭のすぐ上で、御本尊※に手が触れました。
(ああ……。主エル・カンターレに救われたんだ……)
御本尊は、2階の寝室の隣の部屋に安置してあったのに、なんと、私の頭のすぐ上に来ていたのです。やがて、「大丈夫かー、けがはないかー」という声が聞えました。近所に住む二男でした。「大丈夫、生きとる」。二男や近所の男性たちに助けられ、娘と私は、瓦礫のなかから救い出されました。二人とも、かすり傷ひとつありませんでした。
1階にいたら命はなかった
けれども、家は、無残にも全壊していました。2階に寝ていた私たちは、奇跡的に、崩れ落ちた屋根の三角の部分の、ほんのわずかな隙間に収まって、無事だったのです。しかも、私は、地震が起きるほんの数日前まで、1階の部屋で寝ていました。前年末に、二男が近所に間借りして家を出たので、娘が一人ではさびしかろうと、私も2階に上がり、娘の隣で寝るようになったのです。もしあのまま1階で寝ていたら、命はなかったに違いありません。主エル・カンターレのお導きを感じました。
御本尊を抱きしめて
しかし、あたりを見渡した私が目にしたものは、言葉には尽くせないような惨状でした。近所の木造の家は、すべて、跡形もなく倒壊していました。夜もすっかり明けているはずなのに、舞い散る粉塵で、あたりはうす暗く、そのなかで、人々がパニックになって泣き叫んでいます。私は、いつもいっしょに幸福の科学の活動をしている、Kさんのことが心配でたまらなくなりました。すぐに、パジャマ姿のまま、素足の上に、近所の人が差し出してくれた男物のサンダルを履いて、私は娘の手を引き、Kさんの家に向かいました。まさに着の身着のまま。御本尊だけを、しっかりと胸に抱きしめていました。
涙の再会
Kさんの家は、わが家の裏手の小高い丘にある「桜の公園」をはさんで、ちょうど反対側にありました。ふだんは、公園を抜けて歩けば15分で行けましたが、この日は、瓦礫で道が通れず、遠回りしたために、1時間もかかってようやく辿り着きました。はたして、Kさんの家も半壊し、傾いていましたが、ご家族は全員無事でした。わが家が全壊したことを話すと、Kさんは、そっと私を抱きしめてくれました。神戸の街が一望でき、春にはお花見客で賑わう桜の公園。美しい公園が、この日は、一変していました。公園前の道路には、倒壊した家から逃れてきた人たちがズラーッと列をなし、茫然と座り込んでいるのです。さらに、公園から、隣の長田区を見下ろした私たちは、言葉を失いました。あちこちで火の手があがり、真っ黒な煙がたちこめ、長田はまさに煙の街と化していたのです。やがて、同じ地区の信者のみなさんはどうやら全員無事だということが分かり、その晩は、電気だけは通っていた信者の方のお宅にお世話になりました。
たくさんの奇跡
「被災した方々の救援活動を始めるので、すぐに支部に集まってください」
幸福の科学の 支部 から連絡があったのは、その翌日のことでした。支部には、全国から、たくさんの信者が応援にかけつけていました。救援物資も、トラックで次々と運ばれてきます。幸い、支部が入っていたビルは、無事でした。エレベーターが止まり、他の階はすべて機能が停止して真っ暗ななか、夜になっても支部のある7階だけは、幸福の科学の明るい光がこうこうと輝いていました。夜間に支部を訪れた信者のみなさんは、とても勇気づけられたようです。私が、一命を取り留めた経緯を話すと、ほかのみなさんも「うちも、たまたま、あの日、主人の出勤がいつもより1時間早くて、起きて顔洗っとって、家具の下敷きにならんで助かったんよ!」「○○さんとこは、家がメチャメチャになって、出口がふさがれて……。でも、暗闇のなか、御本尊が光っとって、そっちに行くと出口があって、無事、外に出られたんやて!」と口々に話されます。奇跡は、私だけではなく、たくさんの信者のところで起きていたのです。
「神戸を救え!」
この日から、娘と私は、支部に泊まり込んで、炊き出しや、救援物資の仕分けなどを手伝うことになりました。すでに独立していた長男と、二男も、毎日支部に通いでやってきて、家族全員でボランティア活動に参加しました。ボランティアのなかには、被災して、身内を亡くされた方の姿もありました。
「みなさんも、突然の大災害で、不安な気持ちでいっぱいだと思います。でも、目の前の困っている人、苦しんでいる人を助けるのが宗教の仕事です。今こそ、『与える愛』を実践していきましょう!」
「与える愛」というのは、見返りを求めない純粋な心で、他の人に尽くすこと。幸福の科学の教えのなかでも、いちばん大切な教えです。こうして、私たち神戸の信者も、全国各地から集まった信者のみなさんといっしょに、「神戸を救え!」を合言葉に、救援活動を開始したのです。
人々の悲しみ
幸福の科学の救援活動
支部には、総勢200人ほどのボランティアが、すし詰め状態で寝泊まりしていました。朝起きると、まず全員で、「正心法語」をあげて、亡くなった方々の冥福を祈ってから、1日の活動を始めました。救援活動は、夜を徹して行われました。道路が寸断され、昼間は神戸に入る道路が渋滞するため、救援物資を積んだトラックは、夜中に支部に到着します。すぐに積み荷を降ろす支部長や男性リーダーの方たちは、夜もあまり眠れないばかりか、1階の冷たいコンクリートの上に布団を敷いて寝ていたのです。支部の前の道路には、あたたかい食べ物を求めて、炊き出しを待つ、数百人もの人の列ができました。「あったかいよ、たくさん食べてってー」「元気出して! 頑張って」と、一人ひとりに励ましの言葉をかけながら、豚汁やカレーなどを差し出すと、被災して憔悴しきった顔が、とたんに笑顔でほころびます。寒さの厳しい季節。被災者の方は、避難所で、さぞつらい思いをしておられたことでしょう。夜、避難所の体育館に横になっていると、冷たい床を伝って、遠くから「ゴーッ!」という地響きが聞こえ、余震が来るので、恐怖で眠れない被災者も多いということでした。
無私なる心で
「あんた、家、なくなったんやろ?」と、みなさんわが家のことも心配してくれましたが、被災者の苦しみを考えると、じっとしていられませんでした。いつもの私は、「『与える愛』は、お返しを求めない無償の愛」と、頭では分かっていても、(こんなにしてあげてるのに、この人「ありがとう」の一言も言えへんの?)などと、見返りを求める心が出てしまうこともありました。けれども、このときは、ほんとうに無私なる心で、他の方に尽くすことができたのです。夢中でボランティアをしていると、住む家も、着るものも、思い出も、なにもかも失ったことすら、すっかり忘れていました。それどころか、私の心は、なぜか、あたたかい光に満たされていたのです。
仲間のあたたかさ
大人たちに混じって、救援物資の仕分け作業を手伝っていた娘は、まだ高校3年生。二男に頼んで、娘を、田舎の母のところに連れていってもらうことにしました。そして、震災発生から、10日ほどがたったころ、仲間の一人が、「少しは休まんと」と言って、半ば強制的に、私を彼女の自宅へと連れていってくれたのです。あたたかい夕食に、あたたかいお風呂。涙がこぼれました。お風呂につかっていると、気づかぬうちにたまっていた、心の疲れも体の疲れも、全部洗い流されていくようでした。2週間もすると、行政による復旧活動も進み、全部で5カ所に設置されていた幸福の科学の救援センターも、地元の方々に惜しまれながら、引きあげることになりました。全国から集まっていたボランティアも、一人、また一人と、自宅へと帰っていきます。けれど、私には、帰る家はありません。そんな私に、ある方が、そっと鍵を差し出して、言いました。
「行くところ、ないんやろ? ちょうど、もう使わんようになった部屋があるから、そこに、あんたが住んだらいい」
その信者の方は、転勤になって、その部屋を引き払うところだったそうです。着るものも、信者のみなさんに譲っていただいて、最低限、生きていく見通しが立ちました。私は、たくさんの方のやさしさに包まれて、ありがたくて胸がいっぱいになりました。
信仰の大切さ
しばらくして、「瓦礫を撤去するので、拾いたいものがあれば、来てください」という電話がありました。私は、娘と、元の家があった場所へと向かいました。「洋服も、写真も、手紙も、なにもかも、なくなってしもた……」と、娘は、とてもさびしそうでした。瓦礫のなかを探すと、アルバムも見つかりましたが、泥にまみれて、写真は全部だめになっていました。わずかに持ち出せたのは、何冊かの幸福の科学の本と数本のビデオだけ。本は、ていねいに泥をふいて、持ち帰りました。私は、つねづね幸福の科学で、「この世は仮の世であり、なにひとつとして確かなものはない。あの世へ持って還れるものは、主エル・カンターレを信じる心だけ」と、学んでいましたが、このときほど、それを実感したことはありません。いくらこの世のモノに執着して、豪邸に住み、高級車を乗り回し、ブランドの服で身を固めても、ひとたび天変地異に襲われたら、一瞬にして、無になってしまうのです。私は、信仰を持つことの大切さを、つくづく感じていました。
亡くなった方々への鎮魂
私が、隣に住んでいたSさんの安否を人づてに聞いたのは、ちょうどそのころのことです。地震の直後、「助けて!」と声をあげていた奥さんは無事助けられ、ご主人も出張中で無事だったそうです。けれど、1階に寝ていた息子さんと娘さんは、亡くなったと聞きました。母親に連れられ、家を下見に来た息子さんが、「ここがいい!」と、あの家をとても気に入って、引っ越しを決めたSさん一家。娘と同級生だったその息子さんは、引越してきたときは、まだ小学生でした。「もし、あの家に越してこなかったなら……」と、そんな思いが心をよぎり、なんともいえないせつない気持ちになりました。また、私が、布教誌を手渡しにいくと、いつも玄関口で、熱心に私の話に耳を傾けてくれた近所の女性も、亡くなったと聞きました。唯一の救いは、Sさんにも、その女性にも、幸福の科学の教えを伝えてあったことです。生前、少しでも、 大川総裁 の教えを知って、教えの一節、一言だけでも聞いていれば、死後、それをよすがに、あの世で、天使たちが救済にいくことができるからです。
(どうか、あの世で、幸福の科学のことを思い出して。かならず、天使たちが救いにきてくれるから!)
私は、あの世へと旅立った三人の冥福を、心からお祈りしました。
新しい生活
10年以上も住み、三人の子供たちを育てあげた兵庫区の家。思い出もつまっていました。けれど、私は、すぐに前を向いて歩き始めました。空け渡してもらった神戸市北区の団地の一室で、娘と二人で、新生活をスタートしたのです。娘は、震災後の3月に高校を卒業すると、すぐに就職が決まりました。同僚や上司にも恵まれ、毎日がとても楽しそうでした。数年後には結婚して、2人の子供にも恵まれました。二男夫婦のところにも、3人の子供ができました。
一方私は、震災後、職を失い、しばらくは娘の世話になっていましたが、半年ほどたったころ、神戸の有名デパートの面接を受けました。仕事は、迷子のお世話をしたり清掃の仕事をする「整備係」の仕事でしたが、当時53歳だった私を、なんと、そのデパートの子会社の、正社員として雇ってくれたのです。これも奇跡だと思いました。
夢が叶った!
私は、若いころから、「自然に恵まれたところに住みたい」という夢と、「団地に住みたい」という、ささやかな夢を持っていました。一軒家に住むことが多かったので、陽の光がさんさんと降り注ぐ団地のベランダに、布団が干してあるのを見て、「なんだか幸せそう。いいなぁ」と思って見ていたのです。神戸市街から電車で30分ほどの、豊かな自然が残る大きな団地の一室。新しい部屋は、私のその両方の夢を満たしていたのです。
この団地に引っ越してきたころは、私には、知り合いは一人もいませんでした。けれど、団地の人たちにも伝道して、多くの方を幸福の科学にお導きしたので、今では、たくさんの友人ができました。毎日のように、行き来して、いっしょにご飯を食べたり、お茶をしたり。二男のお嫁さんも、幸福の科学にお導きし、その後、「娘が変わったから」と言って、嫁のお母さんも、すぐに幸福の科学の信者になりました。信仰を持っていたおかげで、身知らぬ土地でも、私のまわりには、どんどん、豊かな人間関係が広がっていきました。おひさまの光をたっぷり浴びて、ふっくらとした布団を取り込むたびに、(私の夢は、全部叶えていただいたんだ!)と、喜びをかみしめています。
必ず立ち直ることができる
16年前のあの日、瓦礫の下から救い出された私は、地面に足がついた瞬間、「私は主エル・カンターレによって生かされた。一度は失ったこの命。これからは、人様の幸福のために捧げよう」、そう固く心に誓いました。そして、すぐに、ボランティア活動に参加したのです。もし、信仰を持っていなければ、私は避難所で寒さに震え、すべてを失ったことを嘆き悲しみ、ただ、ただ、未来への不安に打ちひしがれていたことでしょう。阪神淡路大震災では、6千人以上の人たちが亡くなりました。きっと、そのほとんどは、亡くなったあと、自分がどうなるのかすら知らないまま、突然、命を落とされたのだと思います。だからこそ私は、「死ねば、なにもかも終わり」と思っている多くの人たちに、「あの世はあるんよ」「たとえ、愛する人が亡くなっても、あの世で再会できるんよ」と、会う人ごとに、伝え続けてきました。今日も、そして明日も、真実を伝え続けます。
空も、街も、そして人々の心も、神戸は、一度はなにもかもが灰色に沈みました。しかし、こうして立ち直ることができたのです。闇夜は必ず明けて、朝が来ます。全国の被災地の復興とみなさんの幸せを、心からお祈りしています。
繁栄を心に描き、前に進もう
必ず繁栄を取り戻すことができる
しかし、大切なことは、「必ずや、何年か後には、元あった以上の繁栄を取り戻すことができるのだ」ということです。そういう思いを持たなくてはなりません。そして、復興後の繁栄した姿を心に描きつつ、毎日毎日、レンガを一個ずつ積み上げていくように、「今日も一つ、明日も一つ」と思って前進していくことが大事なのです。
(経典『されど光はここにある』より)
一歩ずつ前に進もう
瓦礫を片付けることも、壊れた家を片付けることも、遺品を片付けることも、みな大変です。あっちにもこっちにも大変なことが残っています。それでも、毎日毎日、細分化し、一つひとつ、少しずつ少しずつ、とにかく前進していけば、必ず、すべてが解決していきます。
かつて、神戸の街が、阪神・淡路大震災によって、破壊し尽くされたような状態になりましたが、何年かすると、震災の跡などまったくないように、見事に復興しました。このたびの震災は、非常に残念ではあるけれども、東北の地が「新しい出発」をなし、数年後には、「新しい繁栄への道」が開けてくることを、私は信じてやみません。
(経典『されど光はここにある』より)